2025年8月3日「からし種一粒ほどの信仰があれば」 ルカ福音書17:1-10

与えられた御言葉はルカ福音書17章1-10節です。1-4節に「イエスは弟子たちに言われた。『つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずせるよりも、首にひき臼を駆けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言って、あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」とあります。

イエスは。弟子たちに、人の過ちを赦す、それも徹底的に赦すことを命じています。しかし、命じられても、人の罪を赦すことは大変に難しいことです。イエスは「一日に七回罪を犯しても、七回『悔い改めます』と言って、あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」と命じています。弟子たちは「とてもできることではない」と戸惑い、困惑したのではないでしょうか。それでも、弟子たちは、イエスは『よく分かっている、そうしよう』と言ってくれると思って、「わたしどもの信仰を増してください」と願ったのではないでしょうか。しかし、イエスは「そうしよう」とは言われません。

6節に、「主は言われた。『もし、あなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」とあります。「わたしどもの信仰を増してください」という弟子たちの願いに対するイエスの答です。この「増す」は、「加える」という意味です。つまり、信仰以外の世の力、世の権力、偶像礼拝を加えてくださいと願ったのです。それに対し、「からし種一粒ほどの信仰があれば、できる」と言うのがイエスの答えです。「からし種」は「シナビ」と言い、「最も小さい、無いに等しい」という意味です。「桑の木に命じれば、海の中に移る」は、「不可能なことが可能になる」という意味です。意訳すると、最も小さい、無きに等しい信仰があれば、桑の木に海に移れと命じれば,移る。つまり、不可能なことが可能、できるというのです。イエスは、「神を信じる信仰はこの世で最も力がある。信仰をもって行えば、不可能に見えることが可能になる。無きに等しい、小さな信仰があれば、神が桑の木に「抜け出して、海に根を下ろせ」と命じると、桑の木は海に根を下ろす、神はなんでもできる。神の力を信じる信仰に立って生きよ。」と言われる。

18章18節以下に、「富める議員の譬話(マルコ福音書では、富める青年)」があります。一人の金持ちの議員が、イエスに「何をすれば、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねます。すると、イエスは「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と言われました。その人はこれを聞いて深く悲しんだ。大変な金持ちだったが、人に施すことができなかったからです。イエスは、その人が非常に悲しむのを見て、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言われました。すると、弟子たちはいぶかって、「それでは、だれが救われるのだろうか。救われる人は一人もいない」と言いました。すると、イエスは「人間にはできないことも、神にはできる」と答えました。本質的なことは、人間にはできないことがあるが、神は何でもできるという信仰的事実を信じることであるという。ギリシャ哲学のソクラテスは「無知の知、汝自身を知れ、知り得ることがある、知り得えないことがある事実を」を哲学のテーマとしました。イエスは、人間にはできないことがある。しかし、神は何でもできるという信仰的事実。自分には信仰があるという思いから誤った誇りと罪が生まれ、神に造られた存在であるという信仰的事実を啓示しました。。

イエスは。弟子たちに、人の過ちを赦す、それも徹底的に赦すことを命じています。しかし、命じられても、人の罪を赦すことは大変難しいことです。イエスは「一日に七回罪を犯しても、七回『悔い改めます』と言って、あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」と命じています。弟子たちは「とてもできることではない」と戸惑い、困惑したのではないでしょうか。イエスは『よく分かっている、そうしよう』と言ってくれる」と思って、「わたしどもの信仰を増してください」と願ったのではないでしょうか。;6節に、主は言われた。「もし、あなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」とあります。「わたしどもの信仰を増してください」という弟子たちの願いに対するイエスの答です。神には何でも出来るという信仰に立って生きよ、と言われる。

金城重明先生は、「人間の誇りは、人と国を滅す」と言っています。金城先生は沖縄の渡嘉敷村の集団自決の犠牲者です。家族四人が自決し、先生と弟兄が生き残りました。生き残りましたが、PTSD(外傷後ストレス障害)で心に大きな傷を負いました。その傷の癒しをキリスト教の信仰に求めました。その自己の精神史を振り返ると、滅びの原因は、自分を含めてあの時代の根底にあった人間の誇り、罪、偶像礼拝、自分たちを特別な人間だという誤った自意識であると言います。「自分の中には本来ないのに、ある。できる」と言う高慢な教えをたたき込まれ、洗脳され、思い込んでしまった。その結果、家族を惨殺するという大罪を犯してしまったと述べています。イエスは「人間にはできないことがある。しかし、神は何でもできるという信仰的事実を認識していなければならない。」と言います。ローマ7章18,19節には、「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。なぜなら、善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」とあります。パウロの罪の告白です。内村鑑三は「信仰というのは、自分を無にすること。自分の無価値性、虚しさを知ることである。ない、できない」ことを認識することは、消極的に、否定的に見えるが、その地点に立つと、神はできるという信仰が与えられる。神を信じて、聞き従い、委ねていく道が開ける。」と言っています。

イエスは「僕の譬話」をされています。僕が畑を耕し、羊を飼う働きをあ一日中一生懸命に果たし、夕方、お腹をすかして、帰って来ました。それなのに、僕ですから、「お前は僕だから、晩御飯の準備をしなければならない」と言われます。僕は命じられたとおり、晩御飯を作り、主人のところに持って行きます。すると、主人は「良くやった」と誉めました。すると、僕は、「わたしはふつつかな者です。なすべきことをなしたに過ぎません」と答えました。この僕の言葉は、信仰とは何かを言い表していると思います。加藤常昭先生は「もし墓碑銘を何にするかと問われれば、この言葉を刻みたい。この言葉をもって人生を締めくくりたい。」と言われます。神の前で、心底、自分を低くしていく。自らの無力を認め、神に全幅の信頼を寄せていく、からし種一粒ほどの信仰があえば、と言われます、コリントⅡ12;9に「わたしは三度主に願いました、すると主『わたしの恵みはあなたにj十分である、力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」とあります。神の力は、弱いところで完全に発揮される。神の言葉を信じて、従いたいと思います。