与えられたテキストはマタイ福音書11;2-19です。ヘロデ王に捕らえられ獄中のヨハネが、弟子をイエスのところ遣わし、「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」と訊ねました。イエスは「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人が清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」と答えています。イエスの働き、教えを示し、さらにそれ等に加えて、神の国は確実に来ている事実を明らかにし、ヨハネの弟子を送り返しました。その後、イエスが群衆に向かって語った言葉が今日の御言葉です。7節に、「ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆について話し始められた。『あなたがたは、何を見に荒れ野に行ったのか。風にそよぐ葦か。』」とあります。「風にそよぐ葦」は、[平凡な、世俗的な]という意味です。つまり、ヨハネを、悔い改めを迫る真の預言者と見るべきなのに、世俗的な一般的預言者と見ていると言うのです。あなたがたは。真のヨハネを見に行ったはずなのに、真の、本質を有する預言者と見ることができなかったと言う。
ヨハネはラクダの毛ごろも着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べている、風変りな格好をしていた。その恰好と服装に魅かれて、ついて行くのなら、わざわざ荒れ野のヨハネのところに行かなくても、ヘロデ王の宮殿に行けば、流行の服装の者を見ることができる。つまり、外面の現象だけを見て、事柄の本質を見ようとしている。それでは本質を見ることはできない。イエスの本質、神の国の到来は見える現象だけでは理解できないという。
イエスは、ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのですかと尋ねるので、「神の国は、見られる形では来ない。『ここにある』『あそこにある』とも言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたのただ中にある」と答えています(ルカ17:20,21)。神の国は「見る」のではなく、「聴く」ことを本質としている。イエスは、バプテスマのヨハネ以来、神の国は来たと宣べ伝え、福音を語りました。その神の国の到来、福音を聴き、受け入れ、従うことによって神の国は到来すると言います。
11節に「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼より偉大である。」、15節に「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい。」とあります。「耳がある」とは「聴く意志、主体的に聞く、あれか、これかの決断に立って」という意味があります。ヨハネ福音書20:29には、「イエスはトマスに言われた、『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」とあります。イエスの復活を信じることのできない弟子のトマスの前に立たれ、「見ないで信じる者は幸いである」と言います。信仰にとって「聴く」ことが、最も本質的な事柄であると言います。ローマ10:17に、「実に信仰は、聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」とあります。パウロも信仰は「聴く」ことから始まる、最も本質であると言います。
アダムとエバは、エデンの園で蛇の誘惑に負けて、神から「それを食べると死ぬ」と命じられていた「善悪を知る木の実」を食べ、神の顔を避けて園に身を隠していました。そのとき、「あなたはどこにいるのか」言う神の言葉を聞きます。「どこにいるのか」という神の言葉は、人間に対する根本的な問いです。人間は神の言葉、問を聞いて、答えていく、それが生きることだと言うのです。この「どこにいるのか」という神の言葉は、エリヤにも、モーセにも向けて語られています。預言者エリヤが、アハブ王の迫害を逃れてホレブ山の洞穴に隠れていると、「あなたはどこにいるのか。ここで何をしているのか」と言う神の言葉を聞きます。モーセはエジプト人の追跡を逃れてミディアン地で羊飼いをしているとき、神は現れ、「あなたはどこにいるのか」という言葉をかけています。信仰者は神の言葉を聞き、応えていく。それが信仰の人生だと言います。ルカ福音書17;20に、「イエスは答えて言われた。『神の国、見える形では来ない。ここにある。あそこにある。と言えるものではない、実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。』」とあります。「神の国はあなたがたの間にある」は、言い換えれば、神の言葉が自分に向けられた言葉として聞くとなります。
:16,17に「今の時代は何に譬えたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』」とあります。ヨハネやイエスは、あなたがたを福音の喜びに導こうとしても、来てくれなかった。わたしが悲しんでいるときも、心を動かさなかった。わたしが禁欲的な生活をすると、悪霊にとりつかかれていると言う。イエスが収税人や罪人たちと共に食事をしていると、律法を捨てて、破廉恥だと言う。ヨハネが示した悔い改めも、イエスが示した神の国の喜びも共感することがない。自分の身に当てて聞くことがない、と言う。
或る文学研究の先生は「他人の文学作品を批評するのは大変難しい。特に難しいのは、相手を褒めることである。相手を褒めるには、自分が立たなければいけない。自分が座ったままでいたら、人を褒めることはできない。立ち上がって、自分の気持ちを相手に持っていかなければならない。自分の気持ちをもったまま座り込んでいてはできない。相手に寄り添わなければならない。相手の心になり切ったときに、相手の良さが分かり、褒めることができるようになる」と言います。このことは信仰に相通じると思います。群衆は、座っているのではなく、立ち上がって、イエスに寄り添わなければならなかったのです。イエスの言葉を聴いて心を動かされる。それが信仰にとっても必要であるというのです。
マタイ福音書9;35、36に「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や思い患いをいやされた。また、群衆が飼い主のない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とあります。イエスの救いの業や行動の動機を憐れみの心と言います。「憐れむ」「お腹を傷める、心を激しく動かす」という意味です。イエスは、人の痛みや苦しみに、お腹を痛め、心痛め。心を激しく動かされたのです。同時に、イエスやヨハネの言葉が心に向けられた言葉として聴く者も、心を動かされます。パウロは、弟子たちの福音を聞き、心動かされ、受け入れました。そのことによって、自分の中に変革、新しく生まれ変わるような価値観の転換が起こったと言っています。ペトロは「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。見てはいないけれども信じて、言葉に言い尽くせない輝きにみちた喜びにあふれている。」と言っています。見ないで信じる、聴いて信じ従う信仰を強調しています。福音を聴いて、信じ、受け入れ、従っていく恵みと喜びを覚えましょう。