与えられたテキストはヨナ書3:Ⅰ-5、使徒言行録9:26-31です。ヨナ3:1に「主の言葉が再びヨナに臨んだ」とあります。「再び」ですから、一度目があります。1:1に、「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。」とあります。ヨナは、「アッシリアの首都ニネベに行き、神の言葉を語りなさい。」と、神に命じられました。しかし、ヨナは不信仰、偶像礼拝、悪政のアッシリアのニネベを恐れ、逃げ出し、タルシシ行きの舩に乗船しました。神を裏切りました。ところが、神は、憶病で弱虫弱のヨナに、再び、全く同じ言葉で、臨みました。神は、憶病で、弱虫で、挫折した者を切り捨てることはありません。深い愛と意図とをもって選び、遣わします。
ルカ福音書22;31以下には、イエスを三度裏切ったペトロ物語が記されています。イエスは裏切ったペトロを切り捨てることはありません。赦し受け入れています。ルカ22:22に、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように願った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」とあります。「力づける」は「強める、希望を与える」です。「立ち直る」は「立ち直り続ける」です。イエスは、自分を裏切り、切捨てるペトロに、「立ち直り続け、希望を与えなさい」と命じます。イエスを裏切ってしまうペトロに、人を勇気づける力があるのでしょうか。自分のことも十分に処理できないペトロです。しかし、イエスは、裏切る、弱さを持った者に、「兄弟達を力づけよ」と言います。それはイエスのわたしたちに対する期待、愛です。
士師記6章のギデオンが、小麦の収穫期に襲う、背が高く強力な体力のミデアン人の侵略を恐れ、「マナセ族の中で、最も貧しく貧弱な者、家族の中でも一番小さい者」と言って、酒船の中に隠れています。そのギデオンに向かって、神は「勇者よ、わたしはあなたと共にいる」(6:12)と呼びかけています。神の見るギデオンと、ギデオンの自己理解には大きな相違、勇者と貧者の違いがあります。神はヘブル語で「ヤッハウェ」と言い、人間を創造する神です。言い換えれば、古い人間を新しい人間に造り変える神です。神は、最も貧弱な者、最も小さい者と自己卑下するギデオンに、勇者と言って、勇気と希望を与えます。ギデオンがヤッハウェの神に出会うと、それまでの自己理解とは全く違った自己理解が与えられます。モーセは、ヤッハウェの神に出会うと、イスラエル人をエジプトの奴隷から解放する存在であると言われます。すると、モーセは、「ああ、駄目です。わたしは言葉が巧みではないのです。他の人を遣わしてください」と、駄目な人間」と理解しています。エレミヤも、神に出会うと、「ああ、駄目です。わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者に過ぎませんから。」と呟きます。しかし、ヤッハウェの神は、違ったエレミヤを見ています。「若者に過ぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることを全て語れ。恐れるな。わたしがあなたと共にいる」と、勇気を与えています。モーセには「二度と、言葉の人ではないと言ってはならい。わたしはあなたと共にいる」と言っています。神の言葉どおりモーセは解放者に、エレミヤは預言者になります。ヨナは、ニネベに遣わされる預言者になります。ヤッハウェの神は、モーセの、エレミヤの、ヨナの本来の姿を啓示し、それぞれの使命を持った預言者にします。
:3節に「ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で一回りするのに三日かかった。ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。『あと40日すれば、ニネベの都は滅びる。』。すると、ニネベの人々は神を信じ断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった、」とあります。この「すると」は「予想に反して、思いを超え」という意味です。意訳すると、「ニネベを恐れ、逃げ出したヨナが、再び、『ニネベは滅びる』と叫ぶと、思いを超えて、ニネベの人々が神を信じ、大きい者から小さい者まで粗布を着て、神の前に悔い改めた。また、噂を聞いたニネベの王は王座から立ち上がり、王衣を脱ぎ、粗布をまとい、灰の中に座し、悔い改めた.」となります。神に遣わされているという信仰に立って働く働きは空虚しい思いで終ることはない、豊かな恵みと感謝で満たされる。神に遣わされていると信じて生きる者は、空しい思いで終わることはないという。
イエスの弟子たちが漁に出たが、雑魚一匹も獲れないで、空しい思いで、岸辺に引き返してきました。そのとき、イエスが現れ、「もう一度舟を沖に漕ぎ出せ」と命じました。弟子たちは「無駄です。一晩中働いたのに、雑魚一匹獲れないのです」と言い返しました。しかし、お言葉ですから、網を降ろします。そして、引き上げると、網が引き上げられないほど、魚が獲れました。主イエスと共に生きることの恵みを表現しています。遣わされているとう信仰に生きるとき、徒労で終わらない。神は報いてくださるという信仰を表しています。
使徒言行録9:26以下に、パウロ(サウロ)がエルサレムの使徒の群れに加わるときの様子が記されています。多くの人々が拒否しました。かつて、パウロが教会とイエスを厳しく迫害したからです。パウロは「何をするか分からない危険人物だ」と、恐れ、加入を拒否しました。しかし、バルナバは、主がパウロに現われたこと、ダマスコでイエスのことを大胆に宣べ伝えていると証言し、エルサレムの教会に加えて欲しいと説得し、結局、バルナバの説得と主の導きで、使徒として受け入れられました。バルナバは無名で、その後教会の歴史から消えています。しかし、バルナバがいなければ使徒パウロは存在しなかったです。パウロのような重要な信仰者でも、バルナバの存在しなければ、存在しません。バルナバが大多数の反対の中で、たった一人、パウロを正しく理解し、擁護しました。パウロを生み出したのは、バルナバの神から遣わされているという信仰です。目に見えない神の導きです。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んで、立てた。」という信仰です。神に選ばれるにふさわしいどうか、が問題ではなく、自分は選ばれ、遣わされている信仰的事実を信じる。主に遣わされているという信仰に立つと、暗闇の向こうに光を見出すことだできると思います。