2024年4月28日 復活節第5主日「真の命に至る道」ヨハネ福音書13:36-14:7

 与えられたテキストはヨハネ福音書13:36―14章7節の「ペトロの離反を予告する、イエスは父に至る道」です。イエスは弟子たちと夕食を行い、その夕食の席から立ち上がり、弟子たちの足を洗い始めました。13章12節に「さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、再び席に着て言われた。『わたしがあなたがたにしたことがわかるか。』」とあります。13章21節に、「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。『はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』」とあります。弟子のユダの裏切りを予告しています。36節以下では「シモン・ペトロの離反」を予告しています。13章37、36節に「ペトロは言った。『主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。』イエスは答えられた。『わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。』」とあります。イエスは弟子たちが互いに疑い、苦しんでいることを知っているのです。

14章1節に「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」とあります。13章5節には、「トマスが言った。『主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。』」とあります。弟子たちはイエスの言葉を聞き、心穏やかにしていることはできませんでした。イエスは弟子たちが心を騒がせていることを知り、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と言われたのです。「騒がせるな」は命令形になっていますが、弟子たちを叱責しているのではありません。

12章27節には、「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ,御名の栄光を現わしてください』」とあります。ユダの裏切を、ペテロの離反を予告するとき、十字架を前にしたとき、イエス御自身心騒がせています。同時に、心騒がせることから救われる経験をしています。その経験がありますから、心を騒がせる弟子たちに心を痛め、思いを寄せることができるのです。口語訳は「あなたがたは、心騒がせないがよい」と訳し、「心を騒がせなくてもよい」という慰めの言葉に解釈しています。他人の痛み苦しみを共にするイエスを伝えています。

「心騒がせる」という言葉は、「何を食べようか、何を着ようかと思い悩むな」の「思い悩む」と同じ言葉です。ギリシャ語で「タラッソ-」と言い、原語は「嵐で海上が激しく波立つ、乱れること」を意味し、「思い患う、恐れる、心配する、心悩む」などの意味があります。人が人格の統一を失い、バラバラに分裂することは、生き甲斐、生きる意味を失うことを意味します。

イザヤ書7章2節に、南ユダ王国のアハズ王が、エルサレムが北イスラエル・シリアの連合軍によって包囲されたという知らせを聞き、「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」とあります。アハズ王が国家の存亡の危機に直面し、窮地に立たされたとき、心は引き裂かれ、自分を失ったというのです。つまり、アハズ王は心を騒がせ、チリジリばらばらにされた、心の統一を失ったというのです。心の統一を失うと、心の力は散逸し、生きる力を失います。それ故に、預言者イザヤも、イエスも「心を騒がさなくてもよい。神を信じ、わたしをも信じなさい」と言われるのです。弟子たちの分裂していく心を父なる神に集中させ、生きる力と意味を与えようとされたのです。「神を信じなさい。わたしをも信じなさい」の「信じる」は、ギリシャ語では「エイス・中へ」という前置詞があります。つまり、「イエスを信じる」ことは、イエスの中へ入ることを意味します。言い換えれば、「イエスに身を委ねる」です。本田哲郎神父は「神を信頼して歩み、わたしを信頼した歩みを始めなさい」と翻訳しています。「イエスに身を委ねていく」は、イエスを自分の存在の中核に、イエスを選び、統一し、従っていくことです。ペトロたち。弟子たちはイエスに招かれたとき、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」というイエスの言葉に招かれました。そのイエスの言葉を聞いて、選び、決断し従いました。その「選び、決断」が「信じる、信頼する、委ねる」です。信仰はチリジリばらばらの心を神に統一させます。 

ルカ福音書10章42節に「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリヤは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」とあります。この「必要なこと、なくてならないことはただ一つだけである」の「一つ」を選ぶことが生きる力となります。イザヤ書7章9節に「信じなければ、あなたがたは確かにされない。」とあります。「確かにされない」は、口語訳は「立つことができない」と訳しています。ヘブル語では「アーメン」と言い、「確かにされる、堅くされる」という意味です。神を信じることは、心の分裂を克服し、チリビリバラバラな心を統一させ、生きる使命、生きる意味を与えます。

14章2、3、4節に「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所が用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」とあります。「わたしの父の家には住むところがたくさんある」とか、「場所を用意したら、戻って来る」とか、解釈の難解なところです。この「住む所」は、ギリシャ語で「メネー」と言い、「住居」という意味ですが、動詞になると、「メノー」となり、「つながる・とどまる」という意味です。つまり、空間・場所を意味するのではなく、つながって生きる、つながって存在するという意味です。「場所が用意されている」の「場所」は、「トポス」で、「機会、契機、在り方」を意味します。イエスにつながって生きる契機、つながるために出会うときを意味します。イエスにつながって生きるときが与えられるというのです。ヨハネ福音書15章4節に「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」とあります。イエスの大切な教えの一つは「つながる」です。「イエスにつながる」は、信仰の本質を言い表しています。宗教は漢字では「宗・ソウ」に「教える」と書きます。「宗」は「おおもと、本源」という意味です。つまり、宗教は人生の大本・根源の教えです。英語では「religion」と言い。「re・再び」と「ligion・結ぶ」からなっています。一度断たれた神と人間とのつながりが、再びつながって生きるのが「宗教」です。ハマーショルドは、「人間の孤独ということを非常に愛し、尊んだ人だ」と言われます。「人間は本質的に孤独でなくてはならない、否孤独に耐えてゆかなければならない。それだけに神につながらなくてはならない」と言います。祈りの水路という祈りの文章を遺しています。「神につながる」ということは「神への祈り」です。同時に、祈りは神とのつながりです。ぶどうの木のようにイエス・キリストとつながって生きていきたいものです。