マタイ福音書3;1には、「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」とあります。福音書記者マタイは、「バプテスマのヨハネの出現は預言者イザヤの言葉の成就である」と言います。
イザヤ書の1-39章は、紀元前8世紀のアハズ、ヒゼキヤ王時代に活動したイザヤの預言と言葉であると40-55章は、ヨシア、ゼデキヤ王時代の、所謂、第二イザヤの預言と言葉であると言われています。第二イザヤは無名で、一人であるか、複数か、共同体であるか、定かではないと言われています。イザヤの信仰と預言と活動に共鳴、共感し、確実に継承した預言者であります。第二イザヤが活動した時代は、イスラエル歴史でも最も重い苦難を負った厳しい、信仰的危機の時代でした。イスラエルはビロニア帝国に侵略され、滅ぼされ,城壁、神殿、宮殿は破壊され、人々はバビロンに連行され、捕囚されました(BC607―538)。ユダ王朝は倒壊し、信仰的、精神的支柱を失い、辛うじてバビロンの捕囚民として生き延びることができました。ユダ王朝の倒壊とバビロン捕囚という激動に活動したのが第二イザヤです。
第二イザヤの預言と言葉は、イザヤ40;1の「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた、と。」で始まり、55;13の「それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。あなたたちは喜び祝いながら、出で立ち、平和のうちに導かれて行く。山と丘はあなたたちを迎え、歓声を上げて喜び歌い、野の木々も、手をたたく、茨に代わって糸杉が、おどろに代わってミルトスが生える。これは、主に対する記念となり、しるしとなる。それはとこしえに消し去られることはない。」で終わっています。第二イザヤの言葉は、バビロンに捕囚で、絶望している人々の慰めになり、救いは必来るという終末的希望と勇気になりました。
マタイ3;Ⅰ-3に、「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った、これは預言者イザヤによってこう言われている人である。『荒の野で叫ぶ者の声がする。主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ。』」とあります。来るべき方の到来を告げ、ヨルダン川で洗礼を行うバプテスマのヨハネの出現を記しています。「荒れ野で叫ぶ者の声がする」の「荒れ野」は、バビロンに捕えられている人々が望郷の思いに駆られて、西方を眺めると、故郷エルサレムと捕囚地とを隔てている岩山と荒れ地を意味します。どこにも道はありません。どうしようもない現実が厳然と立ちはだかっています。イスラエルの人々の苦難と絶望の叫びが聞こえるようです。どうすることもできない現実に、失望落胆し、絶望しています。イザヤ40;3に「呼びかける聲がある。主のために、荒れ野に道を整え。わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」とあります。バプテスマのヨハネは、エルサレムに帰還する望みはイエスによって実現する。主の救いは必ず来ると,叫び、宣べ伝えました
イザヤ40:27には、「ヤコブよ、なぜ言うのか、イスラエルよ、なぜ断言するのか、わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と。あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主はとこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。」とあります。イスラエルの人々は捕囚という苦難を負わされ、苦しんでいるが、どこにも救いの光は見えない。神はわたしたちを忘れてしまったと失望落胆しています。しかし、第二イザヤは、滅亡と捕囚のために見ることが出来ない、主の救いの御業は始まっていると言うのです。
マタイ3;11に、「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしはその方の履物をお脱がせる値打ちもない。」とあります。バプテスマのヨハネの言葉です。この「優れた」は「力を持つ」という意味。「人を生まれ変わらせる力、人を活かす力」を意味します。その力ある方に対して、わたしは何の力も無い存在であると言う。「靴を脱がせる」は、奴隷の役目です。その役目すらないというのです。しかし、バプテスマのヨハネは、その方の到来を告げる役目与えられた。その役目に徹底的に仕えたい、主イエスに徹底的に仕えるというのです。それがバプテスマのヨハネがヨハネとして生きる道、与えられた使命、喜びを見出す道であるというのです。
ヨハネ3:29、30に「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」とあります。「ねばならない」は「神の必然」です。バプテスマのヨハネは何事であっても。神の御心に従うというのです。不条理なことが起こりますが、落胆しないで、神の御心と受け入れ、従っていくというのです。バプテスマヨハネは、「わたしよりも優れた方が、後ろから来られる」「わたしは靴の紐を解くほどの値打ちのない者です」「彼は必ず栄、わたしは必ず衰える」と言っています。そう記す福音書記者ヨハネもマタイも徹底的に主イエスを指し示す事に尽くしました。主イエスのために道を開きました。そのことに徹した人生だからこそ、喜びや、生き甲斐、使命を持つことができたのです。主イエスを指し示す、イエスのために荒れ野に道を開く生涯が与えられたいと思います。