2025年9月14日 「弱さを誇る」 マタイ12:38-42 コリントⅡ12:7-9

与えられたテキストはマタイ12:38-42とコリントⅡ12;7-9です。12章1節以下に、イエスが手の萎えた人をいやし、目が見えず口のきけない人をいやした。そのことから、イエスとファリサイ派や律法学者たちとの間で、イエスはメシアであるかどうかの論争が起こったことが記されています。;38に「すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、『先生、しるしを見せてください』と言った」とあります。彼らは、イエスに「メシアであるなら、誰でも認めることができる証拠を示してください。」と言うのです。それに対してイエスは、彼らの問いに直接答えないで、「よこしまで神に背いている。しるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と応え、彼らの問いに直接答えません。イエスは、まず彼ら自身が、自己吟味をすべきであるというのです。この「よこしま」は、「澄んでいない、濁っている」という意味です。「背いている」は「姦淫」という意味で、言い換えれば、「主なる神以外のものを神にしている、偶像礼拝」を意味します。「あなたがたの目が澄んでいれば、あなたがたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。」とあります。言い換えれば、ファリサイ派の人々や律法学者は、目が濁っているので、イエスとイエスの言葉が真理であり、真実であると信じることができず、自らを誇り、他を裁き、傲慢になっているとなります。彼らはエルサレムから来た律法学者で、豊富な律法の知識と経験を持ち、神に選ばれているという特権意識を持っていました。その特権意識が、自らを誇らせ、傲慢にさせました。律法学者とファリサイ派の人々にとって本質的な問題は、自己の誇り、傲慢、頑なな心の悔い改めでした。

イエスは、「救い主であるなら、証拠を示せ」と迫る彼らに、直接応えないで、関係のないように見える二つ物語、「ヨナの物語」と「南の国の女王の物語」を語られます。ヨナは、神からアッシリアの都市ニネベに遣わされ、悔い改めを語るように命じられました。しかし、ヨナは頑なで不信仰なニネベを恐れ、タルシュシュ行の舟に乗って逃げました。途中で嵐に遭い、遭難します。ヨナは嵐を鎮めるために海に投げ込まれます。しかし、不思議なことですが、ヨナは大きな魚に飲み込まれます。三日目に吐きだされ、打ち上げられた場所が、ヨナが主から遣わされたたが、恐れ、逃げ出したニネベの海岸でした。そして、これも不思議なことですが、ヨナが恐れたニネベの人々が、ヨナの語る言葉を聞き、悔い改めたというのです。イエスは、ヨナの物語を語り、頑ななニネベの人々が悔い改めたのに、律法学者とファリサイ派の人々は、イエスの言葉を自分の事柄と受け止め、悔い改めなけなさい、と言うのです。

もう一人、列王紀上10章のソロモン物語の中に出てくる「南の国シェバの女王」です。女王はエルサレムから遠く離れたシェバ(今のイエメン)から、ソロモンの名声を聞き、難問を持ってはるばるエルサレにやって来ました。女王はソロモンの知恵を聞き、驚き恐れ、謙遜な思いを抱いたというのです。シェバの女王も、ニネベの人々も異邦人です。しかし、彼らの目は濁っていないで、澄んでいて、自分の汚れを知り、穢れを浄める力はない事実を認め、悔い改めを受け入れたというのです。この「目が澄んでいる」は「膝を屈める、へくだる思いを持つ」という意味です。ニネベの人々も、シュエバの女王も、膝を屈め、謙遜になって、主を受け入れたというのです。

しかし、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、自分に罪があるという事実、相対的な存在であることを認めることができません。自己の価値観や考えを絶対化し、他人を裁きました。重い皮膚病の人々や徴税人や、律法を持たない異法人を穢れている罪人と軽蔑し差別しました。自己の立場を絶対化し、決して自分を変えようとしません。自ら膝を屈め、悔い改めません。謙遜になれないのです。イエスは、ファリサイ派の人々や律法学者の濁ったまなざしを澄んだまなざしにしようとされたのです。

「大草原の小さな家」という作品があります。インガルス一家がさまざまな苦難と試練に襲われ、苦しみ悩みますが、最後は、それらを乗り越え、打ち勝つドラマでナ。彼らが出会う苦難と試練が他人ごとではなく、自分の苦しみ、悲しみに重なります、そして、最後は苦難と試練を乗り越える希望が与えられます。インガルス一家の長女メアリーが頼まれて、小さな村の学校の教師になります。そこに一人の意地悪な婦人が現れ、村人を動かしていやがらせをし、いじめます。メアリーは、いじめに耐えかねて泣き崩れます。母親は聖書を読んで聞かせます。メアリーは立ち上がります。その立ち上がり方ですが、「よし、わたしは闘う。わたしをひどい目に遭わせたあの人を、そのままにしておかない」と、意地悪な婦人に打ち勝つという仕方ではないのです。或る日、メアリーは正しく、意地悪い婦人が誤っていたかが明らかにされる機会が来ました。しかし、メアリーはそうしませんでした。「わたしは、神様の御心が何であるかということを聖書に問いました。そして、神が望んでおられるのは何かを知りました」と言うのです。自分が罪を犯す人間だということを認識し、自己を絶対化するのではなく、相対化し、神に赦しを求め、謙遜になって、婦人の前に立ち、赦していこうとするのでした。聖書信仰の「悔い改め」が描かれていると思います。「悔い改め・メタノイア」は方向転換という意味です。神の方に向く、神の光に照らされるのです。その時に、自分の罪が見えてくる。そうでなかったら、自分の罪、思いあがりや醜さは見えてこないというのです。ファリサイ派の人々や律法学者が悔い改めることができなかったのは、彼らが罪人・悪人だからではありません。立派で、誰よりも正しいと思っていました。:43以下の「汚れた霊が自分の住み家を奇麗に掃除し、完全に整理、整頓したように、立派過ぎ、完全過ぎたのです。誰にも負けないという誇りがありました。誰よりも弱かったのではなく、強かったからです。そのために救い主イエスを受け入れることができませんでした。

星野富弘さんの詩画集の中に、「レンギョウの花とわたしは傷を持っている。でも、その傷のところから、あなたのやさしさがしみてくる」という詩があります。人の心の砕かれたところから、神の赦しの光は沁みこんでくる。破れに気付き、悩み、苦しみ、悲しむ。しかし、そこで神に出会うことができた。しかし、ファリサイ派の人々は、神の憐れみが沁み込んでくる破れに気付かないのです。

パウロは、コリントに12:9で「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と言っています。「弱さ」は「ア・否定」と「セノス・強い」からなっています。強さの否定、無力を意味します。誰にもある弱さ、無力です。しかし、イエスの信仰によって弱さは重荷にならないで、むしろ、恵みに変えられました。コリントⅡ12:7-9に「それは、思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」とあります。イエスはどんな深い悲しみでも苦しみでも受け入れ、恵みに変える力を与えてくださいます。