イエスの復活を祝うイースターで、テキストはマタイ福音書28:1-10です。1節に「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。」とあります。ユダヤでは、安息日は金曜日の日没から土曜日の日没までです。2、3節に「すると、大きな地震が起こった。主の天使が降って近寄り、石を脇へ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。」とあります。5-7節に「天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなた方より先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」とあります。8、9節には「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」とあります。マグダラのマリアともう一人のマリアは復活したイエスに出会い、イエスの栄光の姿に感動し、恐れを覚え、イエスを拝したといいます。10節には「イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる』」とあります。イエスの言葉通り、二人のマリアと弟子たちは復活したイエスに出会いました。弟子たちと二人のマリアの人生にとって、復活したイエスとの出会いは,一期一会、決定的な出会いになりました。
マタイ26章56節には「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」とあります。弟子たちは、イエスが捕らえられ、十字架につけられたとき、イエスを裏切り、見捨て、故郷のガリラヤへ逃れて行き、生き甲斐や喜びを感じることのできない元の場、生き甲斐を失った日常生活に戻っていました。彼らは元の場、虚しい人生、暮らしを始めたとき、復活のイエスに出会ったのです。弟子たちは復活のイエスに出会うと、心の中に大きな出来事が起こりました。保身のために、イエスを裏切った弱い弟子たちが、イエスのために命を賭けるという信仰をもつ者に変えられました。また、イエスの復活を信じることによって、イエスを捨てる弱い者が命を懸けてイエスに従い、信仰を守る者へ変えられたというのです。コリントⅠ15章54節に「『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか』 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」とあります。パウロは、わたしたちにとって最後の敵は死であり、虚無であり、絶望である。その虚無、絶望、死がイエスの復活によって、また、イエスの復活を信じる信仰によって滅ぼされ、勝利をもたらしたというのです。
詩編66編1、3節に「全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ。神に向かって歌え、『御業はいかに恐るべきものでしょう。御力は強く、敵はあなたに服します。全地はあなたに向かってひれ伏し、あなたをほめ歌い、御名をほめ歌います。』と。」とあります。詩編66編の背景には、一つの大きな歴史的出来事があります。エルサレムがアッシリア帝国の王セナケリブ軍に包囲され、崩壊の危機に直面しました。そのとき、ユダ王国のヒゼキヤ王はひたすら神を仰ぎ、信頼し、依り頼みました。すると、不思議なことですが、アッシリアのセンナケリブ軍はエルサレムの包囲を解き、帰国した。エルサレムは陥落の危機から救われました。ヒゼキヤ王は神の力強さを証し、讃えました。5,6節には「来て、神の御業を仰げ、人の子らになされる御業を。神は海を変えて渇いた地とされた。人は大河であったところを歩いて渡った。それゆえ、我らは神を喜び祝った」とあります。この5,6節の背景はイスラエル人のエジプト脱出の出来事です。エジプトを脱出しイスラエルの人々の行く手には、前進を阻む紅海が広がっています。背後にはエジプト軍の戦車と兵士が迫ります。そのとき、神は、紅海を二つに分け、イスラエルの人々を海の底の渇いた地を渡らせました。渡り終わると、海は元に戻り、エジプト軍の戦車と騎馬は海の中に沈み、全滅しました。ヤッハウェの神はイスラエルの民を救う力を有しているという事実を示す出来事です。詩編20編8,9節には、「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える。彼らは力を失って倒れるが、我らは力を満ちて立ち上がる。主よ、王の勝利を与え、呼び求める我らに答えてください。」とあります。エジプト軍は力を失って倒れるが、わたしたちは力に満たされ、立ち上がることができるというのです。言い換えれば、神はイエスを死から復活させた力強い出来事を起こされる。この世は戦車と騎兵の力を誇り、頼りがいがあると主張し、目に見えない神は無力だ、頼り甲斐がないと言います。しかし、それは真理ではありません。小さな灯心がどんなに深い闇にも打ち勝つように、目に見えない主イエスの復活信仰は罪と虚無と死に勝利すると言います。
コリントⅠ15章13、14節に、「死者の復活がなければ、キリストの復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰は虚しく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」とあります。16、17節には「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」とあります。パウロは死と死の恐怖、虚無に打ち勝つのはキリストの復活信仰であると言います。58節に「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たち苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」とあります。復活信仰は人生の労苦の一切が報われる。一つとして、無駄、徒労に終わらない。その事実を証している。その証拠として、神はイエスを死から復活させたというのです。主イエスの復活信仰は、神の力は世の何よりも強いという事実を信じることです。
或る女性がイエスの復活信仰を証しました。彼女は亡くなる4年前、夫を亡くされました。愛する夫の死という不条理と矛盾に絶望されました。試練はそれで終わりませんでした。悲しみと淋しさが癒えないうちに、今度は御自分が悪性ガンであることが、更に、他の臓器に転移しており、それも末期ガンであることが分りました。しかし、彼女は告知されたとき、慌て、絶望することなく、冷静に受け入れることができたそうです。死を超えたイエスの復活信仰と希望をもっていたからです。死を超えた希望、それがイエスの復活信仰です。神はイエスの復活で根源的な希望を与えようとしているのです。絶望的な状態に陥っても失わない希望です。死を目前にして力を発揮する根源的な希望です。コリントⅡ4章7節以下に「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています、この並外れて偉大な力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅びない」とあります。神は、イエスの復活によって、根源的な希望を明らかにしてくださいました。ペトロの手紙Ⅰ1章3節で「神は豊かに憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいます」とあります。キリストの復活信仰のもたらす希望、絶望と死を超えた希望を与えられるように祈りを献げたいと思います。