2025年9月28日 「イエスの招き」 マタイ11:25-30 

与えられたテキストはマタイ11:25-30です。;28に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」とあります。原文には、「休ませてあげよう。」に、「わたし・エゴー」があり、「わたしが休ませてあげよう。」と、その他の言葉にも「わたしは」、「わたしの」、「わたしに」、「わたしが」「わたしの」が繰り返されています。イエスが強調されています。20節には、「それからイエスは、数多くの奇跡 の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。」とあります。イエスの言葉を理解しないで、受け入れない人々に対するイエスの篤い思いが現れています。

28節に「イエスは、疲れている者、重荷を負う者、だれでもわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう、と言われた。」とあります。9:36には、「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた『収穫は多いが,働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』」とあります。この「深く憐れまれる」は、ギリシャ語で「スプランクゼニサイ」と言い、「スプランクナ・はらわた、腸、激しく動かされる」という意味があります。イエスは疲れ果て、弱り果て、不条理な人生に喘いでいる人々を見て、激しく心を動かされる、心優しいイエスです。更に、イエスは「わたしのところに来なさい。わたしが休ませよう」と言っています。この「休ませる」は、「休息させる」という意味だけでなく、「新しい、新鮮な命、力を与える、refresh、encourage、力づける、勇気づける」などの意味があります。旅人が砂漠を重い荷を負って、長い旅を続けていたが、途中で水筒の水も飲みほしてしまい、喉は乾き切って、苦しみ喘いでいる。その時、新鮮な水が湧いているオアシスを見つけ、腰を下して、一杯の水で喉を潤し、休息を取る。そして、「これで生き返った」と立ち上がり、再び、歩き始める。それが、ここで言う「休ませる・アナパウシン」です。休むことが目的ではなく、再び立ち上がって歩き出すための休息です。希望を得ることが目的の休息です。そういう休息を与えるイエスです。

29節には、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い。わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」とあります。「軛を負い」です。「軛を外して」ではありません。軛を負う中で、安らぎを得ると言う。普通に考えれば、軛を外して休息を得ます。たとえば、軛を付けられた馬や牛は、一日の働きが終え、夕方、馬小屋に帰り、「御苦労」と言われ、軛を外されます。そこで休息を得ます。しかし、イエスは軛を負ったまま、安らぎを得る。軛を負うことは、安らぎを得るためには、無くてならないことであると言いす。漢字の「軛」は、「車編に抑える」と書きますから、軛からは、苦しい、窮屈を連想します。しかし、イエスの「軛」は、人を窮屈にさせたり、苦しめたりする軛ではありません。11:30には、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」とあります。この「負いやすい」は、ギリシャ語で「クレーストン」と言い、「役立つ、情け深い、良い、やわらかい」という意味があります。肩の皮がむける程食い込む硬い軛ではありません。役立つ、情け深い、やさしい軛です。重い荷を運ぶとき、無くてはならない道具、手立てです。軛があればこそ、重荷を運ぶことができるのです。イエスの軛は重荷を背負いながら歩む人生を生きていくときの、最も優れた手立てを意味します。

旧約聖書は軛を律法と考えていました。イスラエルの人々が、さまざまな苦難や試練に出会ったとき、歩んだらよいと与えられた手立て、救い道でした。しかし、長い歴史の中で、人々を疲れさせ、苦しめる律法になりました。イエスは律法を超えるものを啓示しました。マタイ5;17に「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」とあります。イエスの「新しい軛の解釈」です。マタイ福音書5章から7章に、「山上の説教」があります。その中にさまざまなイエスの軛、律法解釈が記されています。6:31に「だから、『何を食べようか』『何を着ようか』『何を飲もうか』と言って、思い悩むな。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」、6;34には、「だから、明日のことまでを思い悩むな。明日のことは明日自ら思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」、6;33には『何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。』とあります。6:20には「富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」、「神は人に知られない、隠れた働きに報いてくださる」とあります。イエスの言葉は、重荷を負って辛くなり、生きる意味や希望を失ったときの手立て、生きる力、生きる方向の教えとなります。その意味では、イエスの言葉は、主の軛ということができます。人が世の重荷を負い、生きるための手立て、道。真理です。

11:29には「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」とあります。「わたしに学びなさい」の「学ぶ」は、ギリシャ語で「マセチュオー」で、「弟子・マセテースの語源」です。意訳すると、「わたしの弟子になりなさい、真似をしなさい」となります。「安らぎ」は、「アナ・上に」と「パウシン・留まる」でなっています。元来ここに「プシュケー・生命、人生」という言葉があります。意訳すると、「わたしがあなたがたの人生の上に留まる。そうすれば、自分では負うことのできない重荷を負うことができる、となります。

或る先生の長い牧師生活とその家族のことが記した文章を読みました。先生は癌で7回も手術をされ、遂に寝っきりになられました。その上に、もの忘れも進んでいました。あんなに愛してきた聖書も、イエスも、妻も娘も分からなくなられました。娘さんは「あんなに神様に仕えてきた父を。あんなに苦しめる、神様の御心はどこにあるのでしょうか、信仰も揺らぎました。」と言っています。しかし、ある日、先生の枕元で讃美歌の「慈しみ深い友なるイエス」を賛美しますと、信じられないような出来事が起きました。自分の名前さえ言えなかった先生が、讃美歌を口ずさみ始められたそうです。そして、そのことを契機に、聖書を読んでほしいと訴えてくるようになられた。そして、「アーメン」、「イエス様、助けてください」と祈るようになられた、と記しています。

イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。わたしが休ませてあげよう。」と言われます。わたしたちの力では、どうすることできない重荷に、試練に、不条理に苦しみます。しかし、イエスは、農夫が運ぶことのできない重荷を牛や馬に軛をつけ、運ぶように、わたしたちにイエスの軛を与え、重荷に、試練に、不条理に打ち克たせてくださいます。パウロは、フィリピ1:29で、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのため苦しむことも恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがた戦っていす。」と、言っています。イエスは、不条理と苦難に満ちた人生を受け入れ、打ち勝ち、勝利を得る道を与えてくださいます。