イエスは最後の晩餐の後、ゲッセマネというエルサレムの東側の小高い丘に、弟子たちを連れて行き、十字架を前にして、非常に悩み苦しまれ、祈りを献げられました。26章37節に「ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。』」とあります。「死ぬばかりに悲しい」の「死ぬばかり」は「心も身体も存在全体」という意味で、「悲しむ」「は「命が死の中に落ち込んでいく」という意味です。「悲しみもだえる」の「悲しみ」は、「ハートブレイク・心が破れる」という意味で、「もだえる」は「故郷を離れる」という意味で、「深い孤独、不安」を意味します。イエスは心が破れるほど深い孤独と不安に襲われ苦しんだというのです。
ルカ9章1節には「12人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。」と。マタイ8章23節以下には「イエスが舟に乗りこまれると、弟子たちも従った。そのとき、湖は激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは起き上がって風と湖をお叱りになると、すっかり凪になった。」とあます。ヨハネ11章43節には「こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。」とあります。そこに記されている荒れ狂い波立つ湖を静め、悪霊の頭ゼブレブルに打ち勝ち、墓に埋葬されたラザロを甦らせる力と霊と気迫とに満ちたイエスとは対照的なイエスです。十字架刑を前にして恐れ惑う、弱々しい人間イエスが記されています。マタイ13章55節には「この人は大工の息子でないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。」とあります。ファリサイ派の人々はイエスをナザレの大工の息子と軽んじ、軽蔑しました。マタイ福音書は、どうして弱々しい、ファリサイ派の人々から軽んじられるイエスを描いているのでしょうか。そこには深い意味と意図と信仰が記されていると思います。
福音書時代と初代教会時代のギリシャ人は「ゲッセマネのイエス」を軽んじ、軽蔑したと言われます。ギリシャ人は、哲学者ソクラテスを人生の師と仰いだと言われます。ソクラテスは正義と信じていた哲学を議会から否定され、死刑を命じられました。ソクラテスは正義のために、不思議に見えるほど、冷静に平然と毒拝を仰ぎ、英雄と信奉されました。ところが、イエスは十字架を前に、恐れと不安に陥り、悲嘆、狼狽しました。ギリシャ人は狼狽し、悲嘆するイエスを見るに堪えないと、批判しました。初代教会の中には、ゲッセマネのイエスを伝えることにためらいがあったといいます。死を願うイエスは救い主にふさわしくない、十字架を恐れ、狼狽するイエスを隠そうとする人々があったと言われます。しかし、福音書記者やパウロは十字架を恐れ、苦しんだけれども、その苦しみと恐れと絶望を克服したイエスに、救いと真理を見出し、同時に、死に直面しながら苦しみと悲しみに打ち勝ったイエスを伝えました。
コリントの信徒への手紙Ⅰ1章22節以下に「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」とあります。パウロは、十字架を恐れ苦しむイエスを「神の愚かさ、神の弱さ」と言い換えています。また、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」と、十字架を悲しみに苦しむイエスでなければ、弱さをもって苦しむ人の救いになりえないと言います。
ヘブライへの手紙4章15節に、「この大祭司はわたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けを頂くために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」とあります。イエスはあらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遇われました。それは、イエスが弱さをもち、恐れや罪に苦しむ人の救いとなるためであるというのです。マルコ2章17節に、「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」とあります。イエスは、弱い人、病人、悩む人を救うために御自身が悲しまれ、苦しまれたというのです。神谷恵美子さんは「ハンセン病の人は、わたしに代わって病を負ってくださった。申し訳がたたない。わたしがこうしてあるのは彼らのお陰である」と言っています。イザヤ書53章4節の「苦難の僕」には、「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。」とあります。
知人は机の引き出しの中に「遺言」が残して、33歳で亡くなられました。「To God Be the Glory、さようなら」と、「今自分は一人でクリマスを迎えている。妻と二人の子は、クリスマス礼拝に出掛けた。自分は礼拝にいくことが出来ない。激しい痛みと闘いながら、妻と二人の子の帰りを待っている。そういう時、イエスが一層親しく、身近に感じ、イエスと自分が一体になる不思議な経験を持つことができた。イザヤ書53章『彼は悲しみの人で、病を知っていた』とあります。」と書き残して逝かれました。この「知る」は一つとなると言う意味です。病んでいる人とイエスとが一体になる。知人は「イエスは、自分の苦しみ、痛み、孤独を誰よりも深く理解してくれていると信じている。そして、すべてを主に委ねる」というのです。
五井昌久さんは「今までの宗教は、『ああしてはいけない、こうしてはいけない』と、生きるエネルギーを無理矢理に押さえ込む役割をしてきた。それは間違いだと思う。宗教は本来人間を自由に解き放すものである。宗教は、神にすべてを委ね、託す道を選ばせるものである。イエスは苦しみの中で、祈り、遂に神に委ねる道を見つけました。」と言っています。
39節に「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままにしてください」と。42節に「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」とあります。イエスは、神に委ねることによって、悲しみと恐れと苦しみを克服されました。同時に、悲しみ、苦しみに悩むわたしたちの道を切り開いてくれました。
「生と死のケアを考える」の著者カール・ベッカーは、「全世界で日本人が死に対して最も不安や恐怖を抱いている。それも、とくに日本人の男性が、死に対する不安や恐怖心が強い。その理由として、家庭での宗教や信仰の教育がないということに関係があるのではないか。死んだらなにもないというニヒル、虚無感、来世に対する信仰がないことに関係があると思う」と言っています。カール・ベッカーの言うことが正しいかどうかは分かりませんが、日本人に限らず、誰もがイエスのように死の恐れに捕らわれ、罪、死の虚無に苦しみます。しかし、イエスは、そういう死の恐怖に苦しまなくても良いようにしてくれたのです。死の悲しみ、恐れから解放してくれたのです。ヨハネ3章16節に「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。「御子を信じる者がひとりも滅びない」ということは、虚無の苦しみを知らなくてもいいようになったということです。この御言葉を信じ受け入れたいものです。パウロは「今日は在るは神の恵み」と言います。今日生かされているのはイエスのお陰という信仰を改めて受け入れたいと思います。