2025年11月2日 「幻を見、夢を見る」エゼキエル37:1-14 使徒言行録10;9-16 

与えられたテキストはエゼキエル37:1-14、使徒言行録10:9-16です。預言者エゼキエルは第一回バビロン捕囚で、時のユダ王国の王ヨヤキンと共にバビロンに連行されました。その5年後(BC593年)、ユューフラテス川の支流ケバル河畔で、預言者に召されました。その6年後、BC587年、エゼキエルは、バビロニア帝国と戦争を回避するために最大限の力を尽くしましたが、戦争が起り、敗れ、エルサレムと城壁と神殿は破壊され、ユダ王国は滅亡し、イスラエル人々は捕囚民となりました。エゼキエルは、「敗戦の要因は、軍事力や経済力の弱小ではなく、『幻」を持たなかったことにあり、国家としても、個人としても『幻』を持つことは本質的なことである。」と言います。箴言29;18に「幻がなければ民は堕落する」とあります。「堕落する」は「滅びる、滅亡する」という意味です。幻・ビジョンがなければ、その国と民は滅亡すると言うのです。使徒言行録2:14以下で、ペトロは、ヨエル書3:1の「若者は幻を見、老人は夢を見る」を引用し、『救われるためには、幻と夢が無ければならない』」と言っています。「幻と夢は救いの必須条件であり、人が生きていくとき、無くてはならない事である」と言っています。イスラエル人々は「幻は幻覚、幻聴、幻想と言うように、人を迷わし、救いに導くことはない」と反論しました。国語辞典では、「幻」は「実在しないのに、実在するように見えるもの、たちまち消えるはかないもの」という意味です。ヘブル語では「チズザゾン」と言い、「人間に対する神の啓示」という意味です。「啓示」とは、「包んでいる包装紙を剥がして中身を明らかにする」という意味です。つまり、「幻」は「神の御心を人間に示す手立て」です。英語では「vision」で、「未来像、理想像、神の言葉、神の約束、神の希望、生きる意味、理想、目標」などを意味します。言い換えれば,捕囚の人々やエルサレムに残っている人々に示された神の希望、約束です。つまり、エゼキエルは「イスラエルの人々が神の希望、約束を失ったため、滅びた。」と言うのです。

エゼキエルは、神に導かれ、谷に連れて行かれました。谷には、ひどく痛んだ枯れ木のような骨が捨てられてあり、目をそむけたくなるような光景でした。37:11に「これらの骨はイスラエルの全家である」とあります。イスラエルの現状を象徴していると言うのです。;11に「彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。」とあります。イスラエルの民は戦いに敗れ、バビロンに連行され、異国のユーフラテス川の河畔で、嘆き悲しんでいる。箴言17;22に「霊が沈み込んでいると骨まで枯れる」とあるように、イスラエルの人々は故郷のエルサレムに帰るという望みを断たれ、もう駄目だと絶望していたのです。彼らが敬っていた王ゼデキヤは、バビロンに敗れ、東ヨルダンに逃亡し、途中エリコで捕らえられ、王子たちは目の前で殺され、両目をえぐり取られ、足枷を填められ、連行されました。ゼデキヤ王の無残な姿は、捕囚の民のトラウマ、精神的な傷になりました。主は「ひどく枯れた骨の現実を見よ」と命じます。:4に、「主はわたしに言われた。『これら骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。』」とあります。神はエゼキエルに、「預言せよ」と、命じます。エゼキエルは従い、御言葉を語りました。すると、不思議なことですが、カタカタと骨と骨が組み合わさり、その上に筋と肉が生じ、さらに皮膚がその上を覆い、そして、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って、自分の脚で立ち、非常に大きな集団になった、と言うのです。エゼキエルは神の言葉・力を確信するのでした。

:11に「彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ。我々は滅びる。』と。それ故、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。『わたしはお前たちに墓を開く。お前たちは墓から引き上げられ、イスラエルの地へ連れて行く。』」とあります。エゼキエルは、希望を見出せず、絶望しているイスラエル人々に、捕囚から解放され、エルサレムに帰還し、北イスラエルと南ユダの統一国家が建設される、と預言します。これが、エゼキエルに与えられた「幻・ビジョン」です。そして、エゼキエルの幻・ビジョンは、捕囚の人々の絶望、空虚、孤独の苦難に打ち克つ力と希望を与えました。捕囚の人々は精神的な崩壊、滅びを免れるのでした。

ヨエルは「若者は幻を見、老人は夢を見る」と言いますが、現代は若い者も、老人も、希望を持てない時代で、幻、つまり、将来に対する未来像、理想像、神の希望を喪失している、枯れた骨の時代です。幻は所与です。自分が造り出し、考え出せるものではありません。神から与えられるものです。ですから、与えられるように祈りを献げなければなりません。エゼキエルと同時代に活動した第二イザヤは「見よ、あなたたちの神を。見よ、未来から来る神を」と言います。「未来から来る神」とは「将来に希望を与える神」という意味です。その未来から来る神に目を注ぐ、と言うのです。エゼキエルは、目に見える現実ではなく、もう一つの、天上の現実に目を向けていく、そこから希望、目標が与えられる。枯れ果てた骨を組み立てて、非常に大きな集団にする神を信じ、幻・希望を見出していく,というのです。

コリントⅠ1:10に、「兄弟たち、わたしの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」とあります。パウロは、コリント教会の中にあった分裂、分派争いに苦しめられていました。「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」と、自らを絶対化し、互いに裁き合い、排除し、分裂、対立する。パウロは、そういう状況の中で、互いに相容れないものが一つになる「幻」を見せられます。二つのもの間にある敵意という中垣を取り除かれて一つになるという幻、未来像、理想像を与えられるのです。

使徒言行録10:9以下に、に弟子たちが「幻を見る」物語が記されています。天が開いて、律法で食べてはいけないと禁止されていた獣、地を這う動物、鳥が入った大きな風呂敷が、降りてきます。すると、天から「屠って食べなさい」という声がします。弟子たちは「主よ、とんでもないことです。わたしたちは清くない物、汚れた物は何に一つ食べたことがありません。」と答えました。すると、天から「神が造った物を清くない、汚れているなどと言ってはならない」とい声が聞こえました。この幻は律法で禁止されている異邦人の救いを意味しています。ユダヤ人と異邦人が一つになる幻です。パウロは、「キリストの前では、ユダヤ人も異邦人もない、男も女もない、奴隷も自由人もない、皆、キリスト・イエスにおいて一つである」と、終末的な幻を啓示しています。相容れない者が、キリストに結びつくことによって、一つになり得るというのです。神の幻・ビジョン、も見上げて生きていきましょう。