与えられたテキストは創世記4:1-10 コリントⅡ12:8-10です。カインとアベルの物語は、カインとアベルの兄弟が神に捧げ物を献げると、神はアベルの捧げ物には目を留めましたが、カインの捧げ物には目を留めなかったので、カインは怒りで心を燃やし、アベルを野原に連れ出し殺害した、という物語です。スタインベックの「エデンの東」や有島武郎の「カインの末裔」で知られているように、文学や哲学に大きな影響を与えてきました。「アベル」は、ヘブル語で「ヘベル」と言い、「息、蒸気、空虚、無価値、無意味」などの意味があります。「カイン」は、ヘブル語で「カーナー」と言い、「力強い生命力、豊かな能力」を意味します。神が目を留めたのは、力強い生命力と能力をもったカインではなく、息や蒸気のようにはかない、無価値なアベルだと言うのです。ここにメッセージがあると思います。神は、はかない、無価値な、弱い者に、目を留め、恵みをお与えになるというのです。申命記7;6-8に「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれ、あなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他の民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」とあります。神が心引かれて、イスラエルを選ばれたのは、イスラエルが他のどの民より貧弱であったから。神は、数が少なく、弱小で、貧しい者に目を留められ、敢えて選ばれたというのが申命記、創世記の信仰です。
マタイ20:1以下の「ぶどう園の労働者のたとえ」で、主人は、夜明け頃、仕事がなく立ち尽くしている人々の集まる集会所に出掛けて行って、一日1デナリオンで雇いました。更に、9時頃に出掛け、12時頃に、3時頃に、5時頃に、1デナリオンで雇いました。日が暮れたので、約束の1デナリオンを払うとすると、朝早くから、また、9時頃から働いた人が、3時頃、5時頃から働いた人を見て、「最後に来た連中は一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱強く働いたわたしたちを、この連中と同じ扱いにするのは、納得がいかない。」と言うのです。すると、主人は、「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは、わたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。あなたが、この件でわたしに文句を言うことはできない。わたしは、この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分がしたいようにしてはいけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」と言われた。イエスは貧しい者、弱い者に目を注がれ、選ばれるというのです。
カインとアベルの神はヤッハウェで、カインとアベル物語の記述者はヤッハウェストです。その時代のイスラエルは政治的、経済的に冨、栄え、高慢になり、弱小国を侵略し、略奪しました。その中で、ヤッハウェストは、神は弱小な者、貧しい者、小さくされた者を愛する方である事実を思い起こさせています。申命記7:14以下の収穫の規定では、収穫のとき、十分の一を、寄留者や孤児や寡婦のために残して置かなければならないとあります。マルコ2;17には、「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」というイエスの言葉があります。この「罪人」は、所謂、犯罪者のことではなく、律法を持たない異邦人、病人、弱い者、小さくされた者のことです。イエスは彼らの救いのために来たと明言しています。
4;3-5に「時を経てカインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主は言われた。『どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。』」あります。「顔を上げて」は、「伏せる」に対照させ、「まっすぐに立つ」という意味で、本来の人間の在り方です。「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求めている」は「野獣が口を開けて獲物を狙っている様」を意味します。「お前はそれを(罪)支配しなければならない」は、野獣に振り回されるのではなく、あなたが支配する、罪に束縛されるのではなく、罪から自由である、というのです。
:16では、「カインは、神を離れてノドというところに住んだ」とあります。「ノド」は「焦り、動揺、不安、絶望」という意味です。カインを苦しめた罪は虚無と絶望です。カインはそれに勝たなければならなかったのです。その意味では、カインの課題です。「罪」は、ヘブル語「ハーター」と言い、「的をはずす、目標、道をはずす」という意味です。「神の定め道を踏み外す」です。罪の反意語は「愛」で、神の愛を疑うことです。罪は気短、単純で、直ぐに白黒をつけないといられない。愛は寛容、情け深い、気長です。カインは単純で、短気で、神の深い意図と愛を読み取ることができませんでした。
カインと対照的な人はヨブです。ヨブは想像を絶する苦難を負います。十人の子どもが災害で亡くし、全財産を奪われます。それでも、ヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」と言って、不条理を受け入れています。それでは終わりません。重い皮膚病に襲われます。ヨブの妻は「あなたはどこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言いました。すると、ヨブは「お前まで愚かのことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいているのだから、不幸もいただこうではないか」と諭しています。ヨブは神を疑わない、希望を持って信じて生きました。カインも、粘り強く、希望を失わないで、生きることを求められていると思います。
:6には「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずである」とあります。この「正しい」は「誤り」の反対の「正しい」ではなく、「喜んで、楽しく、愉快に、精一杯に」という意味です。「顔を上げる」は「まっすぐに立つ」という意味です。言い換えれば、「希望を持って生きる」です。ヤッハウェストはその「術」を記していませんが、預言者イザヤは、「信じなければ、あなたがたは確かにされない」と、神を信じることであると言っています。パウロは、生まれながらの病気を持っていました。それを癒してくださいと何度も祈りましが、その祈りは叶えられませんでした。しかし、神の力は弱いところに完全に発揮されると言っています。「
コリントⅡ12;8-10に、「この事について、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた。『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。』」とあります(協会訳)。イエスがわたしの救いのために、命を献げてくださった、イエスの愛と力を信じて、希望をもって歩んでいきたいと思います。