待降節、アドベントです。救い主イエスの到来を待望し過ごします。与えられたテキストはイザヤ書7:1-17、マタイ1:20-23です。:20「主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」とあります。告げます。;22「このすべてことが起こったのは、主が預言者を通して言われたことが実現するためであった。」とあります。その主が預言者を通して言われたこと」は、預言者イザヤの言葉です(イザヤ7:3-17)。
アッシリアが、大国になり、南方に侵攻してきました。それを阻止するためにアラム(シリア)とエフライム(北イスラエル)が軍事同盟を結び、対抗しました。エフライム・シリア連合は南ユダ王国に軍事同盟に加わるように迫りました。しかし、ユダ国アハズ王は、預言者イザヤの警告があって、同盟に加わろうとしませんでした。エフライム・シリア同盟は強硬手段を取り、ユダ国に攻め込んできました。アハズ王は動揺し、大混乱になりました。そのとき、預言者イザヤは神から言葉を預かり、アハズ王に会い、「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムもエフライムも燃え残ってくすぶる切り株のようなものだ。心弱くしてはならない」という神の言葉を伝えました(7;4)。「静かにしている」は、「山鳥が雛を抱えている姿から生まれた言葉」で、親鳥は敵が襲っても、巣から離れ、バタバタしたら、雛鳥は育ちません。それでは駄目だというのです。「心弱く」は、「薄い」という意味です。薄い地は、種が蒔かれ、芽を出しても実を結びません。根がしっかり張ることができないからです。それでは駄目だ、強い風が吹き荒れても倒れないように。根を地中深く張らなければならないと言う意味です。
;9「信じなければ、あなたは確かにされない」とあります。この「信じる」と「確かにされる」は、ヘブル語では同じ語源で、「立つ」という意味でです。信仰は確かにされ、立つことができると言うのです。ローマ14;8に「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」とあります。パウロは、わたしたちが存在できるのは、主イエスを信じる信仰からだと言います。言い換えれば、預言者イザヤは、アハズ王に、あなたの存在の根底は、神を信頼する信仰である、と言うのです。
マタイ福音書6:33,34に「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことは思い悩むな、明日のことは明日自らが思い悩む。」とあります。。神への信仰こそすべての事柄の源だと言います。預言者イザヤも南ユダ王アハズに神への信頼、信仰を求めたのです。しかし、頑ななアハズ王はイザヤの言葉に耳を傾けることができませんでした。神はアハズ王に、「主なるあなたの神にしるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に」と命じました。「陰府の方、天の方」とは、人間の世界と違う、「神の世界」を意味します。そこに、「しるし、救いを求めよ」と言うのです。アハズ王はシリアとエフライム同盟軍に加わることを迫られ、恐れ、取り乱しました。神は「救いを、今、あなたが立っている地平に求めては駄目だ、異なる地平、次元に行き、求めよ。そうすれば必ず救いが与えられる。」と言うのです。しかし、アハズ王は頑なで、不信仰でした。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」と頑に心を閉ざし、神の言葉に耳を傾けませんでした。
そこで、イザヤはアハズ王に、:14節「それゆえ、わたしの主が御自から、あなたにしるしが与えられる。見よ、おとめが身籠って、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる」と伝えました。神はアハズ王に、「おとめが男の子を産む。その子によって、神がユダの人々を守る。アラムもエフライムも滅亡し、ユダの人々は危機から救われる。」と言うのです。しかし、神の言葉は直ぐ実現しませんでした。現実の歴史、アハズ王時代には、神の言葉は成就しませんでした。男の子が生まれ、「インマヌエル」と名付けるという出来事は起こりませんでした。神は約束を果たさないことになります。
しかし、神は約束を破ることはありませんでした。約束は、主イエスの誕生で成就するのです。神の言葉、約束がイザヤによって告げられたのは、紀元前740年頃ですから、神の約束が実現するには、740年経ったわけです。気の遠くなる長い時間です。しかし、大事なことは、長い時間がかかっても、神の約束は必ず成就するという事実です。神の真実を信じることが信仰です。神の言葉は必ず成就することを信じていきたとおもいます。
神の約束、言葉の内実は「神が共にいる」ということです。言い換えれば、神は守ってくださり、支えてくださるということです。イザヤ41:8-10「あなたはわたしの僕、わたしはあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神、たじろぐな、わたしはあなたの神、勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右手で、あなたを支える。」とあります。ヨシュア記1;5には、「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。」、;9には「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」とあります。アハズ王は、国の滅亡という危機と恐れの中で、神を信じることができませんでした。神よりも、この世の力を頼りました。アッシリアに援助を求め、エジプト王に貢物を送るのでした。しかし、アッシリアも、エジプトも、援助にならず、結局滅びを招きました。
神は、「あなたを捨てて孤児とはしない。」「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」と言い、わたしたちの重荷を担ってくれています。ですから、ひとりで重荷に耐えるのではありません。孤独の悩みの中で戦うのではありません。神が共にいてくださるという事実は、御子イエス・キリストにおいて、明かにされました。主イエスの到来を待ち望みましょう。