今年最後のメッセージです。永遠の希望であるイエスの誕生を喜び、感謝を献げたいと思います。教会のカレンダーでは、1月6日の「公現日」まで、クリスマスの季節です。テキストはクリスマス物語のマタイ2:7-12です。東から来た占星術の学者たちが星に導かれた長い旅が終わり、幼子イエスが母マリアと共におられるところに到着しました。彼らはひれ伏して幼子イエスを礼拝し、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を取り出し,献げました。そして、別の道を帰って行ったと言います。
その後、占星術の学者たちは聖書のどこにも、一度も登場しません。クリスマス物語で重要な役割を果たしているのに、彼らのその後について一言も触れていません。それは彼らの人生が、イエスに宝物を献げるため、礼拝するためであったことを強調するためではないかと思います。イエスに宝物を献げることが、彼らの生きる究極的目的であったというのではないでしょうか。
マタイ2;9-11 に「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、その幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」とあります。この「宝の箱」は「背嚢、リュックサック」のことではないでしょうか。旅に出るときに、いつも肌身離さず着けていた袋のことです。ですから、「宝物」と言いますが、彼らのライフワーク、研究資料、研究論文ではないでしょうか。その意味では、「宝物」は彼らにとって無くてならない物です。彼らの存在の根源、彼らの命そのものです。学者たちはそれらを献げたというのです。言い換えれば、「献げる人生」を選んだ。;12に「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」とあります。「別の道」とは、意訳すると、「別人のように変わり」です。イエスを礼拝し、生まれ変わるように変わり、自分の国に帰って行ったというのです。ローマ12;1,2に、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ,また完全なことであるかをまえるようになりなさい。」とあります。パウロは人生を神に献げる」ことが人生の究極的な目的であると言うのです。
ヴィクトール・フランクルがアウシュビッツの強制収容所に収監されるとき、着ている着物、履いている靴ははぎ取られました。さらに髪の毛、メガネ、歯にかぶせた金まで取り上げられました。フランクルはそれらを奪い取られても,冷静に受け入れていました。しかし、彼には捨てることができないものがありました。それはこれまで研究してきた論文です。心理学者、精神科医として、長年研究してきた彼独自のログセラピーという心理療法の論文です。「わたしの精神的な子ども、生きる目的」と言っていました。奪われるくらいなら、死んだ方が良いと思っていました。彼は看守に「これだけは見逃して欲しい、自分のための論文ではなく、将来の人類のためになるから」と看守に懇願しました。しかし、看守は「甘えたことを言うな」と取り上げ、破棄してしまったのです。フランクルは生きている意味を失い、絶望しました。しかし、不思議なことが起こりました。彼は自分の着物は奪われ、代わりに、先にガズ室に送り込まれた囚人が着ていたぼろぼろに擦り切れたコートが配られました。そのコートを着て、ポケットに手を入れると、一枚の紙切れ、誰が読んだか分からない破り取った聖書の一部です。占星術の学者が、宝物をイエスに献げるところです。また、イエスが自分を十字架に付けた兵士のために、十字架に自らを献げた部分です。フランクルは、人生の見方に変革が起こりました。論文は無くてならないものではない、このような情況の中でも希望を失わないで生きていくことに意味があると気づかされ。信じました。占星術の学者が人生を献げ、幼子を礼拝するクリスマスを経験するのでした。論文は奪われたのではなく、神に献げたと受け取り直すことができました。
「神」ですが、例えば、日本語では、神という言葉は「上」を表わす、「カミ」です。その「神」は絶対的な権威をもって人間を支配するものです。「カミ」と「オオカミ」の「カミ」は同じ語源であると言われます。近寄りがたい、恐れられる存在です。ですから、捧げ物、供え物をして、人間に危害を加えないようにしてもらいます。人間は神に献げ物をしなければならない。神は捧げ物を受ける神です。しかし、主なる神は献げることを要求しません。逆です。独り子を人間のために献げてくれる神です。フランクルは、その神の心に応えたい、答えることが生きることの意味、目的だと思ったのです。
玉木愛子さんに、「目をささげ、手足をささげクリスマス」という歌句があります。目を、手足を献げというのは、彼女が16歳のときにハンセン病にかかり、その病気のために眼球を抜き、手と足を切断しました。普通なら「奪われた」と言うところを、信仰者の玉木さんは「ささげた」と言うのです。誰にもできることではないと思いますが、考えさせられます。カウンセラーの賀来周一先生は、「恐るべき積極性だ。この積極性は一種のユーモアさえ感じる。イエスを信じる信仰の贈り物として、生きる勇気と希望が与えられている」と述べています。玉木さんの俳句に「信ずれば 天と地のもの 暖かし」という句があります。ハンセン病は、当時治療薬もなく、感染すると恐れられていました。隔離政策で、家族も、全てを捨てて、療養所に送られる。16歳から82歳、66年間。彼女の身を置く、この世は非情で、冷酷そのものです。しかし、信仰をもって眺めると、天地は暖かいというのです。フランクルは「それでも人生にイエスという」という著書があります。現実は「否」のはずです。しかし、彼女の信仰は、その現実を「然り」と捉えさせる。キリストは、ことの成り行きはどうであれ、最後は「然り」と結んでくださるというのです。パウロは「神は神を愛する者と共に働いて、万事を益としてくださる」と言っています。「万事を益」は善、肯定です。
占星術の学者たちは、帰るとき、夢で「ヘロデ王のところへ帰るな」と告げられ、別の道を帰って行ったと言います。イエスと出遭った者は、ヘロデ王の支配する世界に戻ることはしないというのです。ヘロデ王の支配する世界は、力で支配する世界です、偉い人、権力を振るって支配する世界です。イエスを礼拝した者が向かうのは、神の国、神の支配する世界です。マタイ20;25に「あなたがた知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振っている。しかし、あなた方の間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕となりなさい。人の子が仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」とあります。人の子イエスが仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たと言われるように、神と人のために生きることに、人生の究極的意味であることを信じて行きたいと思います。