2026年2月8日「イエスの信仰と力と喜び」 マルコ1:21-28

与えられた御言葉はマルコ1;21-28です。イエスが4人のガリラヤ湖の漁師に、「わたしについてきなさい。あなたたちを、人間をとる漁師にする」と招きました。すると彼らはそれに応えて、イエスの後についていきました。イエスは4人を連れて、カファルナウに入り、福音を宣教し、そこで起こった「救いの出来事」が記されています。

:21に、「一行はカファルナウムに着いた。イエスは,安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。」とありますが、何を教えたのか、その教えの内容には何も触れていません。非常に驚いたという事実だけを伝えています。そこに編集者マルコの意図があるのではないかと思います。原文は、「非常に驚いた。イエスの教えに」となっています。ギリシャ語の文章では、文頭に置くことによって、その事実を強調しています。「驚く」が信仰の原点である、福音宣教にとって、重要なことであるという考えです。

ギリシャの哲学者ソクラテスの言葉ですが、ちなみに、ソクラテスは福音書著者マルコより500年前に活動した哲学者です。ソクラテスは「哲学は驚くことから始まる」。つまり、驚きが心の目を開き、そこから真理探究の道、哲学が始まるというのです。哲学の世界の話ですが、信仰の世界にも通じるのではないでしょうか。つまり、信仰は驚きから始まる。言い換えれば、驚きは信仰にとって重要な、大切な意味を持っているというのです。

新約聖書では「救い」という言葉は、「ソーゾ」と、旧約聖書のヘブル語では、「ヤーサー」と言い、「新しい部屋を見つける」という意味です。つまり、救いは、自分の内側に新しい部屋を見つける、つまり、新しい自分を発見する。それは驚きであるというのです。

:22に、「非常に驚いた。その教えに、律法学者のようではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」とあります。マルコ福音書は、「救い」を新しい部屋の発見」つまり、イエスの御言葉に出会って、驚きが人間の内側に起こり、内側に新しい部屋を見つけることを救い、信仰と言います。その意味では、「非常な驚き」は信仰の原点であると言えると思います。

:25に、「イエスが、汚れた霊に向かって、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせて、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った」。:27に、「人々は皆驚いて論じ合った。『これは一体どういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うこと聴く。』」とあります。「驚く」という言葉が出てきます。しかし、この「驚く」は、;22の「非常に驚く・エクプレーサン」とは違う言葉です。「サムボス」と言い、「神の前に立ったときの畏れ、かしこまるを伴う驚き、畏怖、畏敬の驚き」を意味します。この「畏怖、畏敬の驚き」は、新約聖書に13回出てきます。

ルカ福音書5章1節以下の物語が記されています。ペトロたちが夜通し漁をしていましたが、一匹の魚も獲れませんでした。疲れ切って岸辺に帰ってきて、座り込んでいました。その彼らにイエスが近づき、「もう一度舟を出して、網を打ってみなさい」と言われます。ペトロは「先生、わたしたちは湖のことはよく知っています。今日は、無駄です。しかし、お言葉ですから、舟を出してみます」と言い、舟を出して、網を打ちました。すると、網を引き揚げられない程の魚が取れ、舟一杯になった。ペトロは「驚いて」、イエスの足下にひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と告白したと言います。この「驚いて」が「畏怖の驚き、サムボス」です。「聖なるもの」の前に立って、自らの罪を告白させ、救いを求めさせる驚きです。「畏怖の驚き」は、人をイエスへの信仰を生み出し、告白に導く、信仰の本質であり、信仰の原点です。常に「畏敬の驚き」をもって、主の御前に立つ、そういう生き方が求められているのだと思います。

「イエスは権威ある者、権威ある新しい教えを持つ者」と讃えられています。「権威ある者」という言葉は、「イエスの人格、メシア性」を表します。日本語の「権威」は「他人を強制し、服従させる威力を有し、その道で第一人者として認められている人を意味しますが、原語は「エクスゥシア」と言い、「力、自由」を意味し、「律法から解放された自由な者、力ある者」という意味です。

:23には、「汚れた霊に取りつかれた人が会堂で叫んでいる」とあります。会堂に近づくことができるのは、律法学者やファリサイ派の人々でした。彼は入ることはできないはずです。その彼が会堂にいるということは、イエスの許しがあったからではないでしょうか。イエスが招いたかも知れません。彼を恐れて、誰も、近寄ることができなかったと言います。しかし、イエスは恐れず、近づき、向き合い、寄り添いました。つまり、イエスは人間を苦しめる規定、律法から解放され、自由に振る舞うことができました。

2章でも、寄り添うイエスが記されています。イエスが、収税人レビの家で、多くの収税人や罪人と食事を共にしました。その姿を見つけた律法学者ヤファリサイ派の人々は厳しく叱責しています。イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言っています。正に、「神の国は近づいた」です。主イエスは、誰も拒みません。罪人であれ、徴税人であれ、重い皮膚病であれ、寄り添い、赦し、愛されます。自分を十字架に付ける者を受け入れています。全てのしがらみ、罪から解放されている自由に生き、アガペの愛に生き、新しさに生きことができました。

主イエス、汚れた霊に命じると。汚れた霊が出ていきました。イエスの言葉には「力」があります。ヨハネ福音書11章のラザロ物語に語られているイエスを思い起こします。ラザロは死に,墓の納られて、四日も経っています。その墓に納められていたらラザロに向かって、「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫ばれると、死んでいたラザロが、手と足を布で巻かれたまま出てきた。彼らが信じたのは死人を活かす力を持ったイエスです。この力と自由をもったイエスです。このイエスを信じ、従うところに恵みと喜びがあります。