2026年3月29日  「子ろばに乗って」 マルコ11:1-11

与えられたテキストは、マルコ11;1-11「エルサレムに迎えられる」です。イエスが子ろばに乗ってエルサレムに入城した出来事です。人を乗せた経験のない子ろばに乗ることは随分変わった姿です。イエスはその姿でもって、何をしようとされたのか。背の高い立派な馬でなく、まだ人を乗せた経験のない、よちよち歩きの子ろばに乗って入城されました。群衆は着ていた服を脱ぎ、道に敷き、葉のついた枝を振って、「ホサナ、ホサナ」と歓声をあげ迎えました。主イエスは何をされようとされたのでしょうか。

10:42以下では、「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」とあります。このイエスの言葉から、主イエスが「王」になろうとされたとは思えません。しかし、マルコ福音書は、「主イエスは確かに王になろうとしている、自分を王として迎えることを求めておられる。しかし、ただ大事なことは、「王」と言っても、この世の王とは違う。この世の王は、権力を振るって、力で民を支配します。そういう権力を持った王ではなく、真の権威、人が心から納得できる、心から従える、真理を有した王です。真理の王として迎えることを求めているというのです。

;3に、「もし誰かが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用で』主イエスは、弟子たちに「なぜ子ロバを引いていくのか」と問われたら、「主がお入りようなのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」とあります。この「主」は、ギリシャ語で「キュリオス」と言います。マルコ福音書はここで初めて使っています。また、「キュリオス」は、旧約聖書の「ヤッハウェの神」を意味します。「ヤハウェの神」は、ヤッハウエ以外の何ものも、神としない、言い換えれば、心の拠りどころにしないことを求める神です。究極的な心のよりどころを求める神です。換言すれば、神以外の何ものも、心を寄せ、頼ることを禁ずる主なる神です。そのキュリオス、主なる神です。イエスは、キュリオスの神、主なる神に全服の信頼を求められています。例えば、わたしたちは何時も、何に生きる根拠を置くか、ということは大変重要だといわれますが、この存在の根拠、心の拠りどころを神に置くことを求めています。

創世記19章に、ソドムとゴモラの滅びと共に、ロトの家族が滅んでいく次第が語られています。ソドムとゴモラは、積み重ねた悪行のために滅ぼされます。神は、心を痛め、ロト一族を憐れみ、ソドムとゴモラから脱出するように導きました。神は、「命がけで逃れよ。後ろを振り返っていけない」と命じました。しかし、ロトの妻は「決して振り向くな」と命じられていたのに、後ろを振り向いてしまいました。そのために塩の柱になったと言います。ソドムとゴモラに残してきた物に頼る心を捨て切れなかったのです。神の言葉に心を寄せることができなかったのです。このロトの妻ではなく、主イエスに全幅の信頼を寄せることを求めているのです。

主イエスの言葉に、「わたしに従いたいと思う人は、すべてを捨て、わたしに従いなさい。鋤に手を掛けてから、後ろを振り向くのは、わたしの弟子に相応しくない。あなたがたは富みと神に兼ね仕えることはできない。」と教えています。「富」とはギリシャ語で「マモノス」と言い、「頼りがいのあるもの」という意味です。富は、神に対極的に存在するものです。富は、「この世で一番力があり、人間にとって、一番番頼り甲斐になるように見えるものという意味です。富みは、人の心を寄せつかせないではおられないものです。神は、富や、目に見える物に寄せる心を断ち切って、神に全服の信頼を置くことを求めます。「明日のことを思い煩うな。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすればすべて備え与えられる」とあります。わたしたちがイエスを「主」として迎え入れるということは、主イエスに全服の信頼を置いて生きることを意味します。

11:3に「もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入用なのです。すぐにお返しになります』と言いなさい」とあります。子ろばに乗られる王は、この世の王、権力者とは根本的に違います。この世の王は、自分たちが必要だと思と、何でも取り上げてしまいます。そして返すことはありません。戦争時代は、徴兵として若い人々を取り上げました。赤紙と言って、一枚のハガキで、戦争に駆りださせました。そして、人の命まで意のままに用いました。持っている金属を差し出さなければなりませんでした。そして、取り上げたものを返してくれませんでした。この世の王は自分の好きなようにできると思っています。それがこの世の王、権力者です。

しかし、わたしたちの主イエス、子ろばに乗って入城される主イエスは、決してそのようなことはしません。「わたしの役にたったら、後で返す」と言われます。榎本保朗先生は、「あなたの人生の計画が中断され、奪われたかに見える仕方で、主イエスが、あなたの子ろばを求める時がある」と言います。自分の描いていた人生の計画が中断されるように、自分の大事な人生を失ったかのように見える仕方で、差し出さなくてはならないことがある。しかし、主イエスはその失ったものの何倍もの恵みを持って返してくださいます。

ホトトギス派の俳人の玉木愛子さんは、16歳の時にハンセン病と分かり、82歳で亡くなりました。彼女は病のために視力を、手足を失いました。「目をささげ、手足をささげクリスマス」と歌っています。手足を、視力を奪われたが、永遠の命を与えられた、と言うのです。

モーセは、若い時に、同胞のイスラエル人を虐待するエジプト人を見て、かっとなって殺してしまい、そのために荒れ野のミディアンの地に亡命していました。彼は羊飼いではないのに、羊を飼う仕事をしていました。そのためでしょうか。モーセは人の前で話したり、説得することを苦手としていました。誰よりも劣っていると思っていました。そのような中で、「主がお入用なのです」という主の言葉を聞くのでした。主は「あなたが必要だ」と言われます。人が何と言おうと、わたしは「あなたを必要とする」と言うのです。それでもモーセは「他の人々は、主の言葉を聞いていない」、認められていない。不安だと言うのです。その時です。神はモーセが持っていた杖を用いました。その杖はモーセが地に投げるとヘビになったのです。杖は羊飼いなら誰もが持つただの杖です。モーセもはじめから持っていました。モーセは、その杖が用いられるとは知りませんでした。神に言われなければ持っていることさえも忘れてしまっていた杖です。その杖がモーセの手にあることを再発見させられるのでした。神から与えられた賜物とはそういうことではないかと思います。「主がお入用なのです」と、人生の途上で取り上げられるかのように思えますが、そうではなくて、今までの自分には気付かない賜物、豊かな恵みとして、返されるのです。そのことが、今までとは違った賜物を与えられている自分を再発見、再認識する。それが子ろばに乗って入場してくる主イエスを受け入れるということです。主イエスを受け入れた時、新しい出来事が起こります。