与えられたテキストはマタイ福音書12章22-32節です。イエスが、悪霊に取り憑かれ、目が見えず、口の利けない人をいやされると、それを見ていたファリサイ派の人々は、イエスは悪霊の頭ベルゼブルの力を借りて悪霊を追い出したのだと言って、イエスを非難、中傷、誹謗しました。それに対し、イエスは悪霊の頭ベルゼブルには、人を罪から解放することはできない、逆に、人を洗脳し、他人を裁き、自己を絶対化させると反論しました。
ルカ福音書4章3節以下には、イエスが悪魔と激しく戦う内実と、誘惑に打ち克つ信仰について語られています。「そこで、悪魔はイエスに言った。『神の子なら、その石にパンになるように命じたらどうだ。』 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべて国々を見せた。そして、悪魔は言った。『この国国の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。』 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」。そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』 また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』 イエスは、『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」とあります。イエスは悪魔の誘惑と試練とに遭い、戦ったが、神の言葉の力によって、悪魔に打ち克つことができ、悪魔はひと時、イエスから離れたというのです。
ヨブ記1章8、9節には、「主はサタンに言われた。『お前はたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。』 サタンは答えた、『ヨブが、利益もないのに、神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか』」とあります。サタンの執拗な誘惑について語ります。サタンは利益をもたらさない神を信じる人などいません。また自分を犠牲にして、神に仕えられる人などありませんといいます。サタンの働きは自分の利益しか考えない、自己中心的な人間を造ることにあるというのです。ヨブも、イエスも究極的には、自己中心、自己の利益しか追求しないから、サタンを敬うのです、といいます。しかし、イエスだけは、悪魔・サタンと戦い、サタンの誘惑を退け、誘惑に打ち克ったというのです。
ローマの信徒への手紙15章1節に、「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。」とあります。この「自分の満足を求める」とは「自分を喜ばせる」という意味です。パウロは、イエスは救い主・メシアとして、自分を喜ばせ、自己満足させることは決してなかったといいます。イエスの自己中心、自己満足の否定が、イエスが救い主・メシアであることの根拠であるといいます。
マルコ福音書8章34節に、「それから、群衆を弟子たち共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」とあります。イエスは、自己の利益を追求し、自己の拡大を求めて生きる者は永遠の命を得ることはない。逆に、神と神の栄誉、福音のために命を失う者は真の命を得ると言います。イエスの十字架の死の贖いを信じる信仰よって悪霊に勝利するというのです。
29節には「まず強い人を縛り上げなければ、どうして家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」とあります。この「強い人」とは「悪霊の頭ベルゼブル」のことです。「縛り上げる」は「勝利する」という意味です。つまり、イエスの十字架の贖いによって、悪霊の頭ベルゼブルに勝利することを意味します。イエスの十字架の死の贖いを信じる信仰によって、悪霊の頭ベルゼブルの誘惑、自己絶対化、自己中心の罪に打ち克つというのです。28節に「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」とあります。つまり、悪霊の頭ゼルゼブルに勝利するのは自己の力や能力ではなく、神の霊によってであるというのです.使徒言行録1章8節に「あなたがたの上に聖霊が降ると、なたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」とあります。聖霊(ルーアッハ)の語源は、ダイナマイトの語源ドュナミス・力です。アダムが土の塵から造られたときは、生きた存在ではありませんでした。神がアダムの鼻から神の霊を吹き込むと、生きる存在、人間になったと言います。「神の霊」は、人間の存在の根拠、命の根源であるというのです。イエスは、神の霊によって、悪霊に打ち克ちました。その神の霊を神がわたしたちに注がれますと、新しい命と生きる力と希望とを与えられます。使徒たちは、イエスが十字架につられたとき、イエスを裏切り、イエスを見捨てて、隠れ家に隠れました。そのとき、祈りました。すると、神の霊(ルーアッハ)が降ってきました。すると、使徒たちは神の霊(ルーアッハ)に動かされ、福音宣教という新しい使命を受け、出立しました。主イエスを裏切り、見捨てた弱い使徒たちが、迫害も苦難も恐れないで、主イエスのために生きる者へ変えられました。神の霊(ルーアッハ)はイエスを捨てる弱さを持った使徒たちを、主のために生きる者に造り変えました。 31節に「だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、霊に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」とあります。霊は、人間に尊厳を与え、希望を与え、人に生きる意味を与え、人を真に生かす力です。ですから、霊を汚す者は赦されない。つまり、人から希望を奪い、希望を失わせる者を決して赦されないといいます。
知人は若くして、亡くなりました。病状が良くなったとき、教会に帰って来ることができました。しかし、再び悪化し、入院しなければならなくなりました。再入院の時、彼は、「神よ。できることでしたら、教会に戻してください。もう一度、みんなんと一緒に働けるようにしてください。しかし、あなたの御心のままになさってください。わたしはこれからまた病院に戻ります。これもあなたの与えてくださった時として、常日頃、知ることのできない、あなたの御心を知る機会にしてください。良いと思われることも、悪いと思われることも、すべてあなたの手の内にあると信じます。」と祈られました。皆心熱くされ、揺り動かされました。残された命は幾ばくもない彼から、希望と慰めが与えられました。イエスは希望と慰めを与える者は、神の永遠の祝福を受けると言います。 マタイ福音書18章3節に「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような子供を受け入れる者は、わたしをうけ入れるのである。」とあります。子供は希望を与えてくれます。イエスは希望を奪い、失わせることを厳しく諫めています。逆に、小さく、無力な者に希望を与える者を讃えています。また、どんなに小さく無力な者でも、他人に希望を与える者にしてくださいます