与えられたテキストはマタイ福音書4章12-17節です。イエスが、福音の宣教を始めたことが記されています。12節に「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。」とあります。この「退かれた」は「逃れる、避ける、去る」という意味があります。2章13節の「主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。』」の「逃げる」は、ギリシャ語で「フュゴー」と言い、「退く、去る」という意味です。2章14節の「ヨセフ起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り」の「去り」も、22節の「そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引き籠もり、ナザレという町に行って住んだ。」の「引き籠もる」も「退く、逃げる」という意味です。イエスは、バプテスマのヨハネがユダヤの王ヘロデ・アンティパスに捕えられ、獄につながれました。その事実を聞き、ガリラヤのナザレに逃げた、退いたというのです。マタイ福音書は「逃げる、退く」を意識的に使い、「退く、逃げる」イエスを強調しているように見えます、しかし、事実はそうではありません。ヘロデ王を恐れ、逃げ回り、絶望と虚無に陥るイエスを伝えているのではなく、争いと戦いを避け、和解と平和を求め、愛するイエスを伝えようとしていると思います。
14節に「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」と、2章23節には「ナザレという町に住んだ。『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」とあります。つまり、イエスの「退く、逃げる」は、神の必然、人の救いのためにはどうしても選らばなければならない道、神の御旨の成就のためであるというのです。言い換えれば、キリストの福音は、一直線に前進するのではなく、「退き、逃げる」という紆余曲折、挫折、敗北に見える出来事を通して前進するというのです。
使徒言行録は、キリストの福音がエルサレムからギリシャ、ローマの世界に伝播したのは、エルサレムの人々が激しい迫害に遭い、ギリシャの世界に散らされたことが契機となったと言っています。フィリピの信徒への手紙2章12節に「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進のために役立ったと知って欲しい。」あります。フィリピ教会の人々が、パウロがヘロデ王に捕らえられ、獄に繋がれたことを知り、動揺し失望落胆しました。しかし、パウロはその事実を知り、投獄という不幸な出来事が、福音の前進の妨げになることはなく、逆に、役立った。神は苦難や試練を福音伝道に役立てるというのです。パウロは投獄という不条理な出来事を信仰的に、積極的に解釈し、受け入れて欲しいというのです。ボッンヘッファーは「神は最悪のものからさえも、善いことを生まれさせることができる。神は悪を善に変えられる神であると信じる。」と言っています。
13節に「そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた」とあります。この「ゼブルン、ナフタリ、カファルナウム」は、「暗闇の地、死の陰の地」と言われるように、貧困、差別、搾取、虐殺と、悲惨な歴史を持っています。イエスはそのカファルナウムに来て住まわれたというのです。この「住む」は「座り込む」という意味です。イエスも、カファルナウムの人々がアッシリアの侵略と弾圧を恐れて、座り込んだように、座り込んだというのです。また、預言者イザヤが預言したように、カファルナウムの人々のように、死の陰に住み、暗黒に住む恐れと苦難を経験されたというのです。マタイ福音書9章13節に「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と、マルコ福音書10章45節に、「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」とあります。イエスが救い主としてこの世に来られた使命と目的と意味を明らかにしています。
讃美歌312「いつくしみ深き、友なるイエスは、われらの弱きを、知りて憐れむ。悩みかなしみに、沈めるときも、祈りにこたえて、慰めたまわん。世の友われらを、捨て去るときも、祈りにこたえて、労りたまわん。」とあります。作詞者はジョーゼフ・スクリヴァンというアイランド人です。25歳の時、イエスのように故郷のタブリンを出て、カナダに渡り、学校の教師に身を献げました。プリマス・ブレズレンという教派に属しました。プリマス・ブレズレンは聖書の山上の説教を文字通り実行しようとし、必要であれば、身に付けている衣服を脱いで与え、困っている人を助ける、貧しい人や病気の人のために働いた教派です。しかし、余るにも過激で、周りの人々には理解されませんでした。スクリヴァンは深い孤独に苦しみました。更に、結婚直前に婚約者を突然の事故で失い。更に、故郷タブリンの母親が重病にかかるという不幸な出来事が続きました。その時、母親に手紙に書きました。その手紙に添えた詩が、この讃美歌312だそうです。イエスは孤独に苦しむ者と共にいる。真の友だ、誰よりもわたしの慰め主だと言うのです。
17節に「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた。」とあります。マタイ福音書は、イエスが教えの第一声を発したのは「ガリラヤである」と言い、そこに神の救いの意味を見出しています。「ガリラヤ」は、「異邦人のガリラヤ」と言われ、「ガリラヤから何か良い者が出るだろうか。」と(ヨハネ1:46)、「よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないと書いてある。」と蔑視されていました(ヨハネ7:52)。ガリラヤは罪人、汚れた者の集まりと蔑視されていました。イエスはそのガリラヤの中に入って行き、福音宣教の第一歩を踏み出されたのです。4章17節に「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた。」とあります。「天の国」とは、「神の支配」のことです。世の権力者ではない、神御自身が支配する世界のことです。その世界が始まったというのです。「悔い改め」は「思いの向きを変える」という意味です。今までの自分の生活の中にあった心の向きを神に向ける。イザヤの言葉で言えば「光に向かう」ということです。
マタイ福音書28章10節に「イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行きなさい。そこでわたしに会うことになる。』」とあります。16節には「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。」とあります。28章16節に「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。」と、18、19節に、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」とあります。「ガリラヤ」はイエスの福音宣教の原点です。イエスが復活された後、弟子たちに現れたのは「ガリラヤ」です。イエスはガリラヤで、弟子たちを宣教に派遣されました。ガリラヤは信仰、宣教の原点です。迫害や妨害に遭い、苦しみ、迷い、絶望し、進むべき方向を見失うとき、ガリラヤに戻り、ガリラヤでイエスの御旨を聞き、慰めと励ましを受けました。コリントⅡ4章6節に「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」とあります。パウロは闇ではなく、光に向って歩む者に造り変えたという神の声を聞くために、ガリラヤに戻りました。「悔い改めよ」というイエスの言葉を聞き、慰めと励ましを受けました。パウロは、イエスの「悔い改めよ」という言葉に立ち直らせられ、この世へと派遣されていきました。わたしたちもイエスの言葉を信じ、受け容れ、遣わされていきたいと思います。