待降節第三主日です。与えられたテキストはイザヤ書10章24節―11章5節です。11章1節に「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」とあります。原語の1節の文頭にはヘブル語で「ワウ」という「しかし、ところが」という接続詞があります。その「しかし、ところが」の接続詞は、預言者イザヤの預言と信仰とをより明白にしています。10章33節から11章1節を意訳すると、「見よ、万軍の主なる神は、斧をもって、枝を切り落とされる。そびえ立つ木も切り倒され、高い木も倒される。主は森の茂みを鉄の斧で断ち、レバノンの大木を切り倒される。しかし、ところが、エッサイの株から一つの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」となります。「そびえ立つ木、高い木」は「ダビデ王朝」を意味し、「倒される、鉄の斧で断ち」は「ダビデ王朝の倒壊」を意味します。34節の「主は森の茂みを鉄の斧で断ち、レバノンの大木を切り倒される。」は北イスラエル王朝の倒壊を意味します(BC721)。北イスラエルの首都サマリアはアッシリアに3年間包囲され、陥落します。サマリアの人々は捕らえられ、アッシリアに捕囚民として連行されます。南ユダ王国は、アッシリアの王ホシェアが急死したため、滅亡は免れました。しかし、次に即位したセンナケリブ王はエルサレムを攻撃し、包囲し、南ユダ王国の滅亡が迫りました(BC701)。
30章15節に「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。』」とあります。預言者イザヤがヒゼキヤ王に伝えた神の言葉です。しかし、ヒゼキヤ王はヤッハウェの神信仰を失い、神殿と宮殿の宝物殿にあった財宝をアッシリアのセンナケリブ王に朝貢します。エルサレムは滅亡を免れましたが、アッシリアの支配下におかれました。ヒゼキヤ王はヤッハウェの神信仰を捨て、神殿にはアッシリアの神々やバアルの神の祭壇が築き、アッシリアに迎合しました。8章21節に「この地で、彼らは苦しみ、飢えて憤り、顔を天に向けて王と神を呪う。地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放、今苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」とあります。ダビデ王朝の崩落の危機に立たされ、エルサレムの人々は「災いだ、もう駄目だ、全ては滅びた」と絶望したといいます。「しかし、ところが」です。「しかし、ところが、エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」と預言者イザヤは預言します(11:1)。木は切り倒されても、切り株は残ります。その切り株から、ひこばえが萌えいで、その上に主の霊が留まるというのです。イザヤは目に見える現実だけを見るのではなく、見えない神の現実を見ています。それがイザヤの預言者としての使命でした。
エレミヤ書1章11節に「主の言葉がわたしに臨んだ。『エレミヤよ、何が見えるか。』 わたしは答えた。『アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。』 主はわたしに言われた。『あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている(シャーケード)。』」とあります。エレミヤが預言者に召命されたときの物語です。エレミヤは神から「なにが見えるか」と問われると、「アーモンドの枝が見えます」と答えています。アーモンドは春に先駈け、咲く花と言います。つまり、見えている景色は冬だけれども、アーモンドの枝には、春を告げる花が咲いている、春が見えている。空は暗闇だけど、夜明けが見えると言うのです。その意味ではエレミヤも、イザヤも、幻を見る賜物を与えられている予見者、預言者です。イスラエルの人々には見えなくて、「災いだ、もう駄目だ」と絶望しているが、イザヤには見えているもう一つの神の救い現実を予見し、預言しているのです。「主は森の茂みを鉄の斧で断ち、レバノンの大木を切り倒される。しかし、ところが、エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」と預言しました。この「エッサイの株から」の「株」はヘブル語で「ゲザ」と言い、「ボロボロに朽ち果てた、生気のない切り株」を意味します。新しい芽が萌え出て、育つなど考えられない切り株です。イザヤは、「ダビデの切り株」と言わないで「エッサイの切り株」と言います。エッサイは貧しい羊飼いの家系でした。誰もエッサイ家から王が生まれると思いつきません。しかし、ところが、イザヤはぼろぼろの切り株であるエッサイ家から新しい芽が出て、若枝に育ち、その上に主の霊がとどまると預言するのです。
ヨブ記14章7節に「木には希望があるというように、木は切られても、新芽を吹き、若枝の絶えることはない」とあります。この「希望」は「ヒックワ-」と言い、「牢獄に閉じ込められてもなお失わない希望」という意味です。ドストエフスキーは4年間シベリアの収容所に閉じ込められていました。マンデラ大統領は27年間ロベン島の刑務所に収監されました。過酷な運命の彼らを生かしたのは希望です。その希望は人間の希望ではありません。主の霊が与える希望です。11章3節に「彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる。」とあります。主の霊はやがて到来し、弱い人のために正当の裁きを行い、貧しい人を公平に裁きますと言います。
讃美歌二編57番にウィリアム・クーパーの「あらしのあとに」という讃美歌があります。「あらしのあとに、なぎはきたり、かなしみさりて、なぐさめあり、人の望みの、つくるところ、なお主はいまし、おさめたもう」と詠っています。クーパーは人の望みが尽きるところが、終わりではなく、なお、その先に本当の希望があると言います。パウロはコリントの信徒への手紙Ⅱ4章16節で、「だから、わたしたちは落胆しません。たとえ私たちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新しくされていきます」と言っています。パウロは何回も期待を裏切られ、理不尽なこと、不条理に遭い、失望落胆しています。しかし、ところが、失望落胆の先に希望があると言います。イザヤも神の希望は人の望みの尽きた先にある希望である、人間の希望を越えた希望であるといいます。神は神の希望を伝えるために、御子イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。その希望の主であるイエスの到来を待望しましょう。