アドベント・主の降誕を待望する待降節第二主日です。テキストはイザヤ書9章1-6節です。背景のイスラエルの歴史は、南王国のアハズ王が36歳の若さで没し(BC728年)、その子ヒゼキヤが新しい王に即位した時代です。1節に「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」とあります。「歩む」はヘブル語で「ハーラク」と言い、「生きる」という意味です。「闇の中を生きる民は、大いなる光を見」となり、「死の陰の地に住む」の「住む」は、ヘブル語で「ヤーシャブ」と言い、「座る、座り込む」という意味で、「死の陰の地に座り込む者の上に、光が輝いた」となります。
南ユダ王国はアッシリアに侵略され、略奪されました。死を免れた人々は捕囚民として連行されて行き、南ユダ王国の人々は希望を失い絶望しました。そのような厳しい状況の中でアハズ王は亡くなり、ヒゼキヤが即位しました。イザヤはヒゼキヤの即位を「闇の中を生きる民は大いなる光を見、死の陰の地に座り込む者の上に、光が輝いた」と言っています。「大いなる光を見、光が輝いた」は過去形です。預言者的過去形と言い、出来事が必ず実現する事実を表すために用いる時制、過去形です。意訳すると「人々は必ず大いなる光を見る、神は死の陰の地に座り込む者の上に大いなる光が必ず輝く」となります。イザヤの確信的、希望的信仰を表しています。マタイ福音書は「暗闇に住む民は大きな光、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」と言うイエスの神の国宣教で、イザヤの預言が成就したと言っています(4章6節)。イエスの誕生と神の国宣教は、闇の中を生きる人々、死の陰の地に座り込む人々の上に、光が輝く出来事であるというのです。
2節に「あなたは深い喜びと、大いなる楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように、戦利品を分け合って楽しむように。」とあります。「深い喜びと大いなる楽しみ」は、詩編126編5節の「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」の「収穫の喜びと労苦が報われる喜び」と同じ意味です。神は全ての労苦を担ってくださり、労苦に報いてくださり、神は御業を讃える喜びを与えてくださるというのです。
3節に「彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を、あなたはミディアンの日のように、折ってくださった。地を鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく、火に投げ込まれ、焼き尽くされた。」とあります。アッシリア軍が通った後は、草木も生えないと言われるように、アッシリアは強力な軍事力を有していました。
しかし、イザヤは、士師記7章15節の「ギデオンが、神の導きによってミディアン人の陣営を倒し、ミディア人の軍服と軍靴を焼き尽くしたように、神はイスラエルの人々の流した血の着いたアッシリア人の軍服と軍靴を火に投げ込み、焼き尽くしてくださる。イザヤは力強い神に感謝し、神を喜ばないではいられないというのです。
5節に、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」とあります。イザヤのインマヌエル預言です。「生まれた」は預言者的過去です。「インマヌ」は「我らと共にいる」、「エル」は「神」という意味です。「我らと共にいる神」です。出エジプトの時代、イスラエルの民はエジプトを脱出し、荒れ野を放浪しました。旅の途上、あるときは、神はイスラエルの民を胸に抱き、あるときは、背に負い、歩いてくださいました。イザヤは「我らを背負う神、我らと共なる神、インマヌエル」と言います。詩編2編7節に「主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。』」とあります。この「生む」は「王の即位」を意味します。新しい王がわたしたちのために即位したと言うのです。
5節に「権威が彼の肩にある。その名は、驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君と唱えられる。」とあります。「平和の君」の「君」は「指導者、支配者、指揮官」という意味です。何時の時代も王は権力者、支配者、民にとっては恐怖の対象者です。しかし、イザヤの啓示する新しく即位する王は平和、公平、平等、愛、優しさを愛する支配者であります。2章4節に「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を挙げず、もはや戦うことを学ばない」と預言しています。新しく即位する王は武器、兵器を平和の象徴である農機具・鋤、鎌に打ち直させ、兵器を持たせず、戦争のための学びや訓練もさせない、永遠で終末的な平和をもたらせると言います。「指導者」は、動詞になると「助言する、熟慮する」という意味です。つまり、「助言者、相談相手」です。英語訳聖書やヘンデルの「メサイア」では「ワンダフル・カウンセラー」となっています。相手の訴えに心を傾けて聞く者、相手に共感し、寄り添う者を意味します。ヴィクター・フランクル的に言えば、ロゴセラピー・人が生きる意味を見出すのを援助する者です。フランクルは「人は苦難や死の意味を見出すことができれば、どのような苦難や苦しみにも耐え,打ち克つことができる」と言います。驚くべき指導者は生き意味と目的を与え、発見に導く者のことです。
ルカ福音書1章48節のマリアの賛歌の中に、「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです」とあります。塚本虎二訳は「この卑しい召し使いにまで、もったいなくも目をかけてくださった」となっています。「目をかけていただく値打ちもない者に、もったいなくも、目を留めてくださった。」となります。マリアとは、元来「頑固、頑な」という意味です。生きる目的や意味を見出せないで苦しんでいる者を意味します。意味と目的を見出せないで苦悩するマリアに、意味と目的を与えたのが主イエスです。その意味では、驚くべき指導者、ワンダフル・カウンセラーです。マリアから生まれてくる子は、平和の君、永遠の父、希望の父と呼ばれます。預言者イザヤはイエス・キリストを指し示し、イエスの言葉を現実化しました。暗黒の中を歩んでいる者の上に、輝く光、イエスを明らかしました。イザヤは、死の陰の地に座り込み、立ち上がることのできない、一歩も前進することもできない者の上に、大いなる光が輝くと約束してくださいました。イエスの誕生、出現、言葉を預言してくださいました。イザヤのイエスを指し示す言葉に希望と生きる勇気を見出したいと思います。