主の降誕を待望する待降節・アドベントです。与えられたテキストは、イザヤ書7章1-17節の「インマヌエル預言」です。BC8世紀のイスラエルは北エフライム王国と南ユダ王国に分裂していました。北エフライムはアッシリア帝国のイスラエル侵略に対抗して、アラムと同盟を結び、更に南王国ユダに同盟に加わることを求め、連合軍を向けて迫ってきました。預言者イザヤは南ユダ王国が同盟に加われば、アッシリアに滅ぼされると警告しました。2節に「アハズ王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」とあります。「揺れ動く」は「折れる、倒れる」という意味です。南ユダ王アハズは北エフライムとアラムと同盟軍を恐れ、大木が強風で倒れるように動揺したというのです
3、4節に「主は言われた。『あなたの息子シェアル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れでアハズに会い、彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。』」とあります。「落ち着いて」は「注意深く、慎重に」という意味で、「静かにして」は「冷静に平静心をもって」という意味です。「恐れることはない」は「恐れなくてもよい」という意味です。つまり。レッインとレマルヤの子は燃え残って、くすぶる切り株にすぎない。恐れなくてもよいというのです。言い換えれば、信仰の目と信仰的平静心とをもって現実をしっかり見なさいとなります。
しかし、アハズ王は恐れて平静心を失い、イザヤの言葉に聞き従うことはできませんでした。その上、シリアのレッインと北王国ペカは、同盟に加わらないアハズを失脚させ、タベアルの子を王にしようと策略を練っていると怯えていました。それを聞いたイザヤはアハズ王に、「主なる神はこう言われる。それは実現せず、成就しない。」と言いました(7節)。それは神の意志ではないから、実現することはないというのです。
9節に「信じなければ、確かにされない」とあります。イザヤがアハズ王に言った言葉です。言い換えれば、「信じるならば、確かにされる」となります。「確かにされる」は「立つ、生きる、持続する」という意味です。「信じる」は、ヘブル語では「アマン」と言い、「確かにされる、立つ」は「アーマン」と言います。つまり、「信じる」と「立つ、生きる」は同じ語源です。信仰は立つ、主体的に生きる、自立を意味します。南王国ユダは北のアッシリア、南のエジプトの二つ大国に挟まれた小国でした。預言者イザヤは小国の南王国ユダが生きることができるのは、深い信仰と知恵が要ると言い続けました。言い換えれば、中立、平和、対話、寛容、愛、外交に信頼しなければ存続できない。神の言葉を信じ信頼してはじめて生きることができる。武力や財力や偶像礼拝に頼れば滅びる。それが南王国ユダの生きる道、本来の在り方であるというのです。しかし、アハズ王はイザヤの言葉を信じることができず、受け入れる決断ができませんでした。
10節に「主は更にアハズに向かって言われた。『主なるあなたの神にしるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。』」とあります。「深く陰府の方に」は、大国アッシリアに援助を求めることを意味します。「高く天の方に」は神の約束を信じて、アッシリアに援助を求めず、神を信じ、中立に生きることを意味します。イザヤは「高い天の方を選び、委ね、信じ、生きよ」と、アハズ王に迫っているのです。しかし、アハズ王は頑なで、決断できません。イザヤの言う神を信じる信仰では、危機を乗り越えることはできないというのです。
12節に「しかし、アハズは言った。『わたしは求めない。主を試すようなことはしない。』イザヤは言った。『ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与える。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ』」とあります。所謂、インヌマエル預言です。「男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」は「新しい王の即位」を意味します。つまり、アハズ王は神を信頼しないで、深く陰府の方(アッシリア)に援助を求めた為に滅び、新しい王が即位するというのです。イザヤの言葉はアハズ王を憤らせ、イザヤの預言活動は禁じられました。イザヤは窮地に立たされました。しかし、イザヤはひるみませんでした。アハズ王から迫害が加えられても、神を信じ、信頼すれば生きることができるというのです。神の約束の信頼が将来を決定する決定的なことであるというのです。「インマヌエル」とは、「イン」は「共に」、「マヌ」は「我ら」、「エル」は「神」という意味です。つまり、「神は我らと共にいる」となります。どのような危機に直面しても、神は我らと共にいるというのです。
イザヤがアハズ王と会見するとき、子供を連れて行きます。その子の名は「シェアル・ヤシュブ・残りの者、少数の者が帰ってくる」でした。その子供が象徴しているように、神を信じ、信頼して生きる者は少数です。イスラエルの民は皆、アハズ王に傾倒し従いました。神に従う者は少数でした。イザヤは孤立無援、孤独でした。しかし、我らの神は共にいますという信仰を信頼していました。イザヤは「神はあなたと共にいる」の「あなた」を「我ら」と言い換え、「我らと共にいる神」にしました。我らは少数ですが、孤立していない。神を信じ、信頼する我らが共にいる、我らと共にいる神が存在するというのです。
ヨハネ福音書16章33節に「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」とあります。ヨハネの手紙Ⅰ5章1節には、「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。」と、4節には「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者でありませんか」とあります。イザヤもヨハネも、真の信頼をおける神が存在するから、苦難と試練を生き抜くこと、神に創造された者として生きることができると言います。真の拠り所である神の言葉を信じ、信頼する道を歩んで行きたいと思います。