与えられたテキストはエレミヤ書36章1-10節です。5節に「エレミヤはバルクに命じた。『わたしは主の神殿に入ることを禁じられている。お前は断食の日に行って、わたしが口述したとおりに書き記したこの巻物から主の言葉を読み、神殿に集まった人々に聞かせなさい。』」とあります。エレミヤの預言者活動は南ユダ王ヨシヤ、ヨヤキム、ゼデキヤ、エルサレムの陥落の時代です。ヨシヤ王はエルサレム神殿の改修工事を行い、工事中に「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」というヤッハウェの神信仰の理念が記されていた巻物を発見しました。ヨシヤ王はBC622年ヤッハウェの神信仰の理念に基づいて宗教改革を行いました。各地で行われていたバアルの偶像礼拝を、「あなたには、わたしをおいてほかの神があってはならない」というヤッハウェの神の律法に従い、廃止しました。同時に、アッシリア、バビロニア、エジプトの大国の軍事力、経済力に依存しないで、主なる神のみを信頼し従うという宗教改革を実行しました。エレミヤはヨシヤ王の宗教改革を支持しました。結果、ヨシヤ王は30年間、弱小国南ユダを平和と繁栄に導きました。しかし、ヨシヤ王不運にも、エジプト王ネコとの戦いに敗れ、戦死し、宗教改革は挫折しました(BC605年)。その後、即位したヨヤキム王、ゼデキヤ王はヤッハウェの神信仰を捨て、バアルの神の偶像礼拝を再開し、更に、エジプトの軍事力、経済力を頼りました。エレミヤは、弱小国南ユダ王国の平和のためには、ヤッハウェの神を信頼し、義と平和の道を選ばなければならないと主張し、ヨヤキム王、ゼデキヤ王の国政と外交を批判し警告しました。ヨヤキム王、ゼデキヤ王はエレミヤの預言活動を弾圧しました。コリントの信徒への手紙Ⅱ12章8節に「この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。神の力は弱さの中でこそ十分に発揮される。』」とあります。エレミヤはこの御言葉に支えられ、ヨヤキム王、ゼデキヤ王の弾圧にひるまず神の言葉を語り続けました。
36章4節に「エレミヤはネリヤの子バルクを呼び寄せた。バルクはエレミヤの口述に従って、主が語られた言葉をすべて巻物に書き記した。」とあります。神は、エレミヤに「バルクを書記官として選び、巻物に口述筆記させ、神殿に集まった人々に読み聞かせなさい」と命じました。バルクは確かな信仰をもった人物で、演説も上手でした。バルクが役人や民衆の前に立って、口述筆記したエレミヤの言葉を読み聞かせると、役人は勿論、人々は皆畏れを覚え、罪を悔い改めたと言います。
エレミヤ書1章4節に「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。』 わたしは言った。『ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。』」とあります。エレミヤの召命の出来事です。「ああ、災いだ。主よ、わたしは語る言葉を知りません」の「災い」は「滅びる」という意味です。「わたしは滅びる」と、召命を固辞しています。「語る言葉を知りません」は「弁舌爽やかではない、下手です」という意味です。エレミヤは性格も繊細で、控え目で、演説を苦手としていました。しかし、神は不思議にも、御業を成し遂げられる方です。エレミヤを律法学者や政治家にしないで、預言者にしました。そして、苦手な演説を補うために書記官バルクを与えたのです。
出エジプト記4章10節には「それでもなお、モーセは主に言った。『ああ、主よ。わたしはもともと弁の立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。わたしは全く口が重く、舌の重い者なのです。』 主は彼に言われた。『一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けるようにし、耳を聞こえないようにし、見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。』 モーセは、なおも言った。『ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。』」とあります。14節には「主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。『あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。』とあります。モーセの召命の出来事が記されています。神は、召命を拒み続けるモーセに向かって、雄弁なアロンを与えています。神は「ヤッハウェ」という名前で、「主は必ずあなたと共にいる」という意味です。神は共にいるしるしとして、モーセにアロンを、エレミヤにバルクを与えました。主なる神はだれもが持っている弱点と欠点を補ってくださり、弱い所で力を発揮してくださいます。
書記官バルクがエレミヤを通して語った神の言葉を読み上げると、全ての人々が心動かされ、悔い改めたと言います。しかし、ヨヤキム王は怒り、巻物を取り上げ、ナイフで切り裂き、暖炉の中に投げ込み燃やしました。エレミヤの語ってきた神の言葉を焼き捨て、封じ込めてしまおうとしたのです。しかし、神はバルクに、「今まで記憶している全ての言葉を記しなさい」と命じました。すると、バルクは、今までエレミヤが語ってきた神の言葉を記すことができたといいます。ヨヤキム王は巻物を焼き捨てましたが、神の言葉は焼き捨てることはできませんでした。神の言葉は、ヨヤキム王の権力をもってしても、封じ込めることはできません。ルカ福音書19章40節に「イエスはお答えになった。『言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す。』」とあります。神の言葉はどのような権力を持ってしても封じ込めることはできないのです。
ヨハネ福音書8章31節に「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。』」とあります。この「自由」はギリシャ語で「エリュセロス」と言い、「自分で正しいことを選ぶ、主体的に」という意味です。言い換えれば、真理はいかなる状況の中でも、命の道、愛の道、義の道を自由に主体的に選ぶ力を与えるとなります。アウシュビッツの収容所の中の出来事ですが、囚人は強制労働に駆り出されます。配給される一日の食事は一つの固いパンと一杯の薄いスープです。病人にはパンは与えられません。しかし、不思議な出来事が起こりました。しばしば朝、起き上がることができない病人の枕元にパンが置いてあるのです。食べなければ、自分の生命を保つことができない命のパンです。誰が置いたのか分りません。強制されたとか、決められていたのでもありません。その行為は、誰も知らない知られない自発的、主体的行為です。イエスにつながる人は真理を知り、信じ、自由で主体的な行動を生み出します。イエスの言葉につがって、信じ、真理を待ち望みたいと思います。神の言葉はあらゆる束縛としがらみから自由にします。神の御業は真理と自由の中で成し遂げられます。