2023年10月29日 「神の召命と信仰」創世記12:1-9 マタイ福音書4:18―22  出エジプト記3:7-14

与えられたテキストは創世記12章1-9節です。アブラハムの召命物語です。1、2節に「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。』」とあります。「祝福の源となるように」は「祝福の源となれ」と神の命令にも、また、「祝福の源とする」と神の約束にも訳すことができます。3節に「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」とあります。「あなた・アブラハム」を文頭において、アブラハムを他の全ての氏族の祝福の源に必ずすると強調しています。言い換えれば、神がアブラハムに与えた「召命」です。「召命」は漢字では「召し」と「命」の二文字でなっています。ヘブル語では「カーラー」、ギリシャ語では「クレーシス」と言います。語源は「呼ぶ」で、「神に呼ばれる」という意味です。アブラハムは「全ての氏族の祝福の源とする」と神に呼ばれ約束されたというのです。

マタイ福音書4章18、19節に「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」とあります。ペトロとアンデレの召命物語です。元来は「あなたがたを」という目的語がありました。意訳すると、「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にする」となります。イエスにはペトロを呼ぶ目的があります。それがペトロの召命です。アブラハムの召命物語にも、元来は「あなたを祝福し、あなたの名を高め、祝福の源とする。」という神の目的と意味があります。アブラハムは神に呼ばれ、出会い、生きる目的と意味とを見つけることができたのです。

出エジプト記3章7-10節には、「主は言われた。『わたしは。エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。』」とあります。11節には「モーセは神に言った。『わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。』 神は言われた。『わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである』」とあります。モーセの召命物語です。モーセの信仰の原点には神の呼びかけ、招きがあります。神の召命があります。神の召命に応えていくのがモーセの信仰であるということができます。

東京大学名誉教授で、世界的な免疫学者の多田富雄先生は、脳梗塞で倒れ、右半身が完全に麻痺し、声と食べる自由を失うという重い障害を負われました。先生はご不自由になられたご自分を「のろまで醜い巨人」と、ユーモアを持って表現されていました。先生は重い障害を負ってから、厳しいリハビリを続け、左手の人差し指1本でパソコンを打ち込むようになり、エッセイや能の作者として活躍されました。東大の名誉教授で世界的な免疫学者であられた先生の業績は世界的に高く評価されています。更に、高い評価と尊敬を受けておられるのは、脳梗塞でお倒れになってからの先生です。サンカジュン先生の言葉で表現すると、「態度価値」です。ご本人がおっしゃるので、赦していただけると思いますが、倒れて、「のろまで醜い巨人」になってからの生き方が素晴らしく輝いています。先生は障害を負ってから、自分の使命、生きている意味と目的が明確になったと述べています。また、同じ障害を負った人々に希望と生きる勇気を与えることが自分に与えられた使命であるとおっしゃっていました。

ビクター・フランクルは、アウシュビッツのユダヤ人の強制収容所で、生き延びることができた一人です。あの極限状況の中を生き延びことができた要因は、身体的な丈夫さや頑強ではなく、「態度価値」であると言います。人生に何かを期待する生き方ではなく、人生が自分に何を期待するかを尋ね、それに応えようとしている生き方をした人が、生き残ることができたと記しています。言い換えれば、神が期待すること、また、神の御旨を問いながら、日々新しくされていく生き方をされた人であるというのです。

或る方はあの東日本大震災で、妻と息子と嫁、孫を喪いました。なぜ年老いてから、過酷な人生を与えるのか。鞭打つように苦難に襲われ、絶望したそうです。それを見ていた者も、何もできない無力感に襲われたそうです。しかし、その方はアブラハムの信仰によって、不条理に打ち克ち、生きる伸びることができたそうです。そして、その真摯な生きる方が他者の希望になったというのです。

預言者イザヤはバビロン侵略で生き残った者の目的について語っています。戦争で、国が滅び、多くの犠牲者を出しました。その中で、『なぜあの人は死に、なぜわたしは生き、遺され、捕囚の民とされ、苦難を負わなければならないのか』という問いに苦しみましました。イザヤは、その「なぜか」という問いに答えないで、生き残って、苦難を負っている者に特別な意味と目的があるといいます。ヨハネ福音書13章7節に「イエスは答えて、『わたしのしていることは、今分るまいが、後で、分るようになる』と言われた」とあります。厳しい現実に直面すると、神は見捨てたのかとしか思えません。しかし、後でわかる時が必ず来ると言うのです。東日本大震災の避難所で生活していた中学生が、父親の行方は分からないそうです。その彼女が大きな紙に「希望がある」と書いて張り出したことを思い出しました。紙を貼りだした中学生に敬服します。人間はすごいと思いました。山本周五郎の「人間ほど尊く、素晴らしく、たのもしいものはない」という言葉を思い出しました。イエスも、アブラハムも、モーセも、人間のすばらしさ、頼もしさを告げています。御言葉に支えられ、生きていきたいと思います。