与えられたテキストはマタイ福音書9章27-31節です。二人の盲人が主イエスにいやされ、目が見えるようになった物語です。この「二人の盲人をいやす物語」に編集史的な影響を与えたのが、マルコ福音書10章46-52節の「盲人バルティマイの物語」とマルコ福音書5章25-34節の「12年間長血を患う女性がいやされた物語」です。しかし、この二つ物語は彼らの信仰の対象と信仰の内容が明確ではないと言われています。マルコ福音書10章51節に、「イエスは、『何をして欲しいのか』と言われた。盲人は、『先生、目が見えるようになりたいのです』と言った。そこで、イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った』」とあります。また、マルコ福音書5章34節には、「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。』」とあります。今日のテキストのマタイ福音書9章27-31節の「二人の盲人をいやす」の27節以下には、「イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、『ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と言いながらついて来た。イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、『わたしにできると信じるのか』と言われた。二人は『はい、主よ』言った。そこで、イエスが二人の目に触り、『あなたがたの信じているとおりになるように』と言われると、二人は目が見えるようになった。」とあります、この二人の盲人をいやす物語は短いですが、信じる対象は主イエスであることが明確にされていると思います。
28節の「『わたしにできると信じるのか』と言われた」は、直訳すると、「このわたしにできると信じるのか」となります。「このわたし」と言って、「わたし・イエス」に強調点を置いています。信じる対象は、他の誰でもない、主イエスです。何でもできる主イエスを信じるのです。究極の問題は何でもできる主イエスを信じることです。「わたしにできると信じるのか」の「できる」は、ギリシャ語では「デュナマイ」と言い、名詞では「デュナミス」と言い、「ダイナマイト」の語源で、「強力な力、爆発的な力」を意味し、「何でもできる」と訳されます。つまり、デュナマイ・何でもできる主イエスが信仰の対象です。他のだれでもない、何物でもない、何でもできる主イエスを信じるかと問われるのです。
マルコ福音書9章14節以下に「汚れた霊に取りつかれた子供をいやす物語」があります。21節に「イエスは父親に、『このようになったのは、いつごろからか』とお尋ねになった。父親は言った。『幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください』。イエスは言われた。『できればと言うのか。信じる者には何でもできる』と言った」とあります。この「信じる者」は、ただの信仰者のことではなく、「人間にはできないが、神にはできる」という事実を信じることができる者のことです。つまり、主イエスは何でもできるというのです。
マタイ福音書19章16節以下の「金持ちの青年の物語」の23節に、「イエスは弟子たちに言われた。『はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』 弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、『それでは、だれが救われるのだろうか』と言った。イエスは彼らを見つめて、『それは人間にできることではないが。神は何でもできる。』」とあります。また、ルカ福音書1章36節には「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にはできないことは何一つない。」とあります。天使が戸惑うマリアを励まします。主イエスも「人にはできないが、神にはできる」と言っています。同時に、神には何でもできるが、人間にはできないことがあるという事実を受け止めなければならないと言います。ヨブ記38章11節に「ここまでは来て、創造やと被造物の区別を明確にしておかなければならない、越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」とあります。神と人間を明確に区別しなければならない。人間にはできないが、神はできると信仰的事実を信じ信頼していかなければならないといいます。
「神にはできる」の「できる」は「創造する、造る、変える」という意味です。「神は創造し、変えることができる」このことを信じることが信仰だと言います。創世記50章20節に「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」とあります。神は悪を善に変える神であると創世記のヨセフは証言しています。ローマの信徒への手紙8章28節に「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」とあります。パウロは万事を益とする神、悪を善に変えることのできる神を信じる信仰であると言います。
マタイ9章28節に「イエスが家に入ると、盲人たちが寄って来たので、『わたしにできると信じるのか」とあります。「信じるのか」は「命令形」ではなく、「勧告、読め」です。つまり、「信じるね、信じますよね、信じてくれるね」となります。彼らは「信じてくれるのかね」と問われたから、「はい、主よ」と答えることができたのだと思います。
この「はい」は、ギリシャ語で、「ナイ」と言い、「そうですとも、主よ」という強い肯定です。カトリックの司祭ミシェル・クオストに「はいと言っておくれ」という詩があります。「子よ、はいと言っておくれ、わたしがこの地上にやってきたとき、マリアは『はい』が必要であったように、きみの『はい』がいま必要なのだ。地上におりて、きみと一緒になるために、きみの『はい』がわたしには必要なのだ。この世を救い続けるために、きみの『はい』が必要なのだ」という詩です。預言者イザヤは、神に召されたとき、神が「わたしは誰を遣わそう」と言うと、それを聞いたイザヤは、「わたしがここにいます。わたしをお遣わしください」と、「ハイ」と答えています。「はい」は「主よ。その通りです」という意味で、信仰の原点です。絶体肯定です。信仰は、究極的に「はい、主よ」と、主イエスの言葉を受けていくことではないかと思います。この「家」は「イエスの家」を意味します。マタイ8章20節に「イエスは言われた。『「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」とあります。イエスは自分の家は持ちませんでした。この「家」はひとつの象徴であると思います。「主イエスとわたし」という人格関係の成立の場、わたしとイエスとがつながる絆を意味する。言い換えれば、わたしの目が主イエスだけに注がれる場所と時を意味するのではないでしょうか。
原崎百子さんは「わが涙、わが歌となれ」という詩集を遺されて逝かれました。彼女は四人の子たちを遺して、肺ガンで亡くなりました。亡くなる直前に綴った詩です。「主に目を向ける、主にのみ、わが二つの瞳を据えて生きる。誰がどうであろうと、わたしは今、それだけによって生きる。主にのみ目を向ける。誰がなんと言っても、主にのみ目を向ける。主イエスが求めているから、と詠っています。自分が、どれだけの信仰を持っているか、どれだけの確信があるか、それは問題ではない、ただ主イエスに目を注いで生きていく、それだけで十分だと思います。