与えられたテキストは創世記9章1-17節のノア物語です。6章1節からノア物語は始まりますが、幾つかの資料が混じり合っているので、物語は複雑です。しかし、中心テーマは神の裁きと救いです。6章5節に「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。』しかし、ノアは主の好意を得た。」とあります。神は豪雨を降らせ、洪水を起こし、地上から全てをぬぐい去ろうとしました。豪雨は40日間でやみ、洪水はひきました。ノアが鳩を放すと、帰って来ませんでした。すると、ノアとノアの家族と全ての生き物が箱舟から出てきました。神はノアと息子たちに御心と救いの契約を告げました。
9章9節に「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」とあります。「契約を立てる」の「立てる」は「確立する、確認する、決心する、生活を維持する」などの意味があります。「立てる」と現在形になっていますが、ヘブル語では現在形はなく、過去完了形で、契約はずっと継続していることを意味します。更に、「二度と洪水によって、肉なるものが滅ぼすことはとは決してない」とあります。「二度と」と「決してない」は、神の強い意志が強調され、表明されています。神はどのようなことがあっても、ノアと全地を二度と滅ぼすことは決してない。二度と滅ぼさないことは神の強い意志であるというのです。
12節に「更に神は言われた。『あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。』」とあります。「虹」はヘブル語で「ケセト」と言いまして、「弓」のことを意味していました。やがて「矢」も意味するようになり、「虹を置く」は「弓矢を置く」ことを意味し、争いは終結し、平和と和解が生まれたことを意味します。また、「虹」は二つの世界、神の国とこの世とを結ぶ架け橋、隣の人と結び合わせるために創造された架け橋を意味します。この「虹・ケセト」は、動詞になると「腰を屈める、お辞儀をする、屈服する」という意味です。つまり、人間が神にお辞儀をするのではなく、神が腰を屈めて、お辞儀をするという意味です。「わたしが立てた契約のしるし」の「契約」は「ベリート」と言いまして、「神の側からの一方的に保証」を意味します。この世にどのようなことがあっても、神はこの世を最後まで保証すると約束されたというのです。神は裁きを止めたと決心されましたが、人が罪を悔い改めて正しい者になったから、その見返りとして裁きを止めたというのではありません。神の愛と恵みによって、二度と裁かないと決心されたというのです。
5節に「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、」とあります。人は簡単に悔い改める存在ではないことを表しています。依然として罪と悪を重ね、罪と悪に染まった存在です。しかし、神は違います、神は、人がどうしようもないほど罪深い存在であることを承知の上で、大地を呪って、全ての生き物を滅ぼすことはないと約束されたのです。神は愛の存在であると言います。
イザヤ書54章7節に「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが、深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと、あなたを贖う主は言われる。これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。再び地上にノアの洪水を起こすことはないと、あのとき誓い、今またわたしは誓う。再びあなたを怒り、責めることはない、と。山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる。」とあります。「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが、深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる」の「深い憐れみ」は、ギリシャ語では「スプランクニゼニサイ」と言い、「相手の痛みを自分の腸(はらわた)を痛める程に受け止める」という意味です。神はわたしたちの罪と穢れのために心を痛まてくださるというのです。「とこしえの慈しみ」は、「アガペーの愛、無償の愛」という意味です。パウロ的に言えば、神の一方的な恵み、憐れみ、救いです。神は、人間の罪深さを承知の上で、裁きを下すことはない。逆に、永遠の愛をもって寄り添い、受け入れてくださる。それがノアの洪水と虹の物語のメッセージであるというのです。
エゼキエル書18章31節に、「『お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちが死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる」とあります。「生きよ」と、神の方から腰を屈めてくれるヤーウェの神について明らかにしています。この「だれの死をも」の「だれ」は「死ぬ者」と言う意味で、カトリック訳では「いずれは死ぬもの」と訳されています。エゼキエルは、「神はいずれは死に、朽ち果てていく人間、その人間の誰の死をも喜ばない。どんなことをしてでも、生きよ、したたかに生きよ、と神は言われる」と言います。
浅野順一先生は、膝を屈める神について、「自分がどんなに駄目だと思っても、神は駄目だと思っていない。人から駄目だ、駄目だと言われても、神はよしと肯定している」と言っています。詩人の伊藤比呂美さんが好む言葉は「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という親鸞の言葉だそうです。伊藤比呂美さんには、ヒロコという娘さんがおられ、そのヒロコさんを題材にした「ヒロコ殺し」という作品があります。恐ろしい書名の詩で、出版されると、父親から「比呂美、お母さんが悲しむから、こういうことを書くんじゃない」と叱られ、母親からは、「これなに?こういうことを書くと、お父さんが泣くから、やめて。」と叱られたそうです。彼女は「両親を悲しませるような作品ばかりを書いているのよ」と言っています。「いやなことも悪いことも山のように積み重ねてきたわたしこそ救いから一番遠い人間です。善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をやという言葉を受け入れました」と言っています。
ノアやヨナ物語はどうしようもない弱い人、罪人こそ救われるという神の愛の物語です。神は決して二度と滅ぼさないとノアと契約を立てました。エゼキエルの神は何人の死をも喜ばない、翻って生きよ、と、存在を肯定します。神の肯定があるからこそ生きることができるのだと思います。どうしようもないほど、汚れきった存在ですが、失望落胆し、絶望しないで、贖われて生き、希望に生きることを祈りたいと思います。