与えられたテキストはダニエル書3章13-25節です。ダニエル書は人生の苦難や危機に直面したとき、どのように生きるか。苦難や試練に出会っても、なお希望を抱いて生きる信仰について記しています。ダニエル書1章1節に「ユダの王ヨヤキムが即位して三年目のことであった。バビロンの王ネブカドネツァルが攻めてきて、エルサレムを包囲した。」とあります。ユダ王国は、BC598年バビロンの王ネブカドネツァルよって滅ぼされ、ヨヤキム王は捕囚され、バビロンに連行されました。ダニエル書は捕囚について記していますが、バビロンの王ネブカドネツァルの捕囚ではなく、シリアのアンティオコス・エピファネスによって起こされた捕囚です。エピファネスは在位はBC175年ー163年で、バビロン捕囚(BC605年ー583年)とは関係がありません。エピファネスはイスラエルの人々が最も恐れた王です。イスラエルの人々を徹底的に弾圧し、マカベヤ戦争を起こした残忍で凶暴な王で、絶対的な権力を有していました。エピファネス王に抵抗できる者は一人も存在しませんでした。少しでも批判、抵抗すれば、処刑されました。勿論ダニエル書の著者もエピファネスを批判、抵抗することはできません。そこでダニエル書の著者はヤーウェの神を神とする信仰者を迫害する王を、エピファネスではなく、ネブカドネツァルにしたのではないかと思います。ダニエル書は歴史とは違っていますので、旧約聖書では歴史書ではなく、預言書に分類され、エゼキエル書の次に置かれたのではないかと思います。
1節に「ユダの王ヨヤキムが即位して三年目のことであった。バビロンの王ネブカドネツァルが攻めてきて、エルサレムを包囲した」とあります。この「ネブカドネツァル」は、歴史上のバビロニアのネブカドネツァルではなく、シリアのエピファネスであることが解りました。そこから御言葉を実存的に解釈するようになったのではないでしょうか。例えば、「ネブカドネツァル」は歴史上の王ではなく、「この世の絶対的な権力者」を意味し、また、「エルサレムを包囲した」は「人間の実存の表現」を意味すると解釈します。つまり、キリストを信じる者はこの世に包囲されて生きている事実を表し、この世に包囲されている人間の存在を意味しているというのです。1節の「ネブカドネツァルが攻めて来て、エルサレムを包囲した」という言葉を、マタイ10章16節の「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。」というイエスの言葉と関連して解釈し、イエスの教訓として読むことができます。
ヨハネ福音書15章18節に「世があなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕が主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。」とあります。この「憎む」は「嫌悪する、無視する、斥ける」などの意味があります。マタイ福音書6章24節には「だれも、二人の主人に仕えることができない。一方を憎んで他方を愛するか、一方を親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と冨とに兼ね仕えることはできない。」とあります。わたしたちはイエスを信じて生きるとき、この世ではなく、主イエスに従って生きます。ですから、内的な戦いや葛藤は避けられません。また、孤独な思い、辛い思いをします。それでもなお、主イエスを信じ従い、喜んで生きる道を選び取っていきます。それがヤーウェの神の導きであると信じるからです。
ネブカドネツァル王は大きな金の象を建て、平伏して拝みなさい。拝まない者は燃え盛る炉の投げ込むと命じました。イスラエルの人々はモーセ以来、ヤーウェの神以外の如何なる神も、者も拝し平伏してならないという教えに従ってきました。シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人はヤーウェの神の教えを破ることは罪を犯すことになるから、ネブカドネツァル王の命令でも、従うことはできないと拒否しました。
3章16-18節に「わたしたちの仕えている神は、その燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また、王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。そうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、また、あなたの建てた金の像を拝みません。」とあります。ネブカドネツァル王は激しく怒り、燃え盛る炉の火を七倍にし、三人を縛って火の中に投げ込みました。ところが、不思議なことですが、三人は燃え盛る炉の中を歩いているのです。3章29節に「まことに人間をこのように救うことのできるヤーウェ神はほかにはいない」とあります。ネブカドネツァル王はこれを見て驚き、主なる神を誉め称えたと言うのです。
17節に「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくても、ご承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」とあります。この言葉は、キリスト教信仰の神髄を言い表しています。「たとえ神が炉から救い出さなくても」「たとえこの病気が癒やされなくても」「たとえ神がわたしたちの願いを叶えてくれなくても」神のなさることはすべて善とし神を信頼し委ねていくというのです。
知り合いの牧師ですが、不条理にも重い苦難と患難を負っていました。なぜ先生が苦難を負わされなければならないのかと疑問を抱きました。先生は癌で手術をされ治療中です。妻は病気で長く入院生活をされ、一人娘は入退院を繰り返していました。息子は、数年前に亡くなりました。苦難は次々と彼を襲いました。しかし、先生は厳しい現実の中で福音を力強く語り、信仰を証しています。願いが叶えられなくても、神の御業が行われ、神の栄光が表れることを祈りとしています。苦難の中を生き抜くことができるのは、神を信じる信仰によるという事実を確認させられました。
ネブカドネツァル王が、シャデラク、メシャク、アベド・ネゴら三人を投げ込んだ炉の中を見ると、縛って投げ込んだはずなのに、三人は炎の中を歩いているのです。更に、不思議なことです。もう一人歩いているのです。「四人目の者は神の子のような姿をしている」と言っています。つまり、神が共にいてくださるという信仰の告白です。神は燃え盛る炉の中に投げ込まれた彼らと共にいてくださるのです。神は、わたしたちが窮地に直面させられ、苦難と患難の中に投げ込まれるとき、共に身を置いてくださいます。この御言葉は、ナチス時代のドイツの教会の中で良く読まれました。読む者も、聞く者も不思議なリアリティを実感し、折れそうな心が奮い立たされました。たとえ、救いがないように見えても、主が共にいてくださる。全ての術を失っても、絶望しない。人間をこのように救うことのできるヤーウェの神を他にしてないという信仰に立って、希望を見出していきたいものです。