与えられたテキストは創世記32章23-33節のヤコブのペヌエルでの格闘物語です。ヤコブは、兄エソウが四百人を率いてこちらに向かっているという報告を受け、エドムに住む兄エソウが復讐に来たのではないかと警戒しました。ヤコブは20年前兄エソウから長子の特権を騙し奪い取りました。兄エソウは今もそのことを恨んで、復讐するために向かっていると思いました。ヤコブは争いになっても、全滅しないように、連れて来た家族、従者、羊、牛、ラクダを二組に分け、それぞれの先頭を行く者に、エサウのご機嫌を伺う贈り物と口上を言い含めました。エサウの怒りをなだめた後、顔を合わせれば、迎えてくれると、策を練りました。ヤコブの狡猾で抜け目のなさが現れています。
その夜、ヤコブは作戦どおり、皆をヤボクの川を渡らせました。その後、ひとり渡らず、野営地に残りました。兄エソウを恐れての思案でした。不思議な話ですが、その時、神の使いがヤコブの前に現れ、二人の間で格闘が始まり、夜明けまで続きました。格闘は激しく、ヤコブの腿の関節が外れ、動くこともできない重傷を負いました。しかし、ヤコブはひるまず、激しい痛みと苦しみと戦いながら、「祝福してくれるまで、決して離さない」と、神の使いにしがみつきました。その時、神の使いはヤコブに「お前の名は何というのか」と尋ねました。「ヤコブです」と答えました。ヤコブとは「人を押し退ける、狡賢い、人を欺く」などの意味です。「名は体を表す」と言われるように、ヤコブは兄エソウを欺き、騙し長子の特権を奪い取りました。それでも神の使いは、ヤコブに「今後、あなたをヤコブと呼ばないで、イスラエルと呼ぶ」と約束しました。「イスラエル」とは「神の祝福を受けた者、神に選ばれた者」という意味です。神は「狡賢いヤコブ」を「神の祝福を受けた者・イスラエル」に生まれ変えたのです。ヤコブはそのために股関節が外されるという重傷を負い、苦しみを経験したというのです。言い換えれば、ヤコブの股関節が外されるという負傷と苦痛がイスラエルを産み出したのです。「夜と霧」の著者・ビクター・フランクルは「意味のない苦難はない」という言葉を遺しています。ヤコブの神の使いの各党は意味のない苦難はないという事実を残していった。この言葉を信じて受け入れて、行きたいと思います。
コロサイの信徒への手紙1章24節に「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」とあります。「苦しむことを喜びとする。」「苦難を誇りとする。」「苦しむことを賜っている。」という言葉はパウロの信仰を表しています。なぜ苦しみを喜びとするか? それはあなたがたの救いのためであるといいます。使徒言行録20章23、24節に「ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきりと告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」とあります。また、コロサイの信徒への手紙1章24節に「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」とあります。あんなに苦しんだキリストのどこが欠けていると言うのでしょうか。難解な聖書の言葉の一つです。少し細かいことになりますが、「キリストの苦しみ」の「の」は、所謂、「所属や所有」の「の」ではなく、「起源、出所」の「の」です。言い換えれば、主イエスの「わたしに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という言葉に従うことら生じてくる苦しみ、試練を意味します。苦難と苦しみを信仰的に肯定的に受け入れていくというのです。「キリストの苦しみの欠けたところ」の「欠けたこと」は、「残されたこと」という意味です。直訳すると、「キリストの残された苦しみ」となります。言い換えれば、福音伝道、教会形成、信仰の証しのことです。福音伝道を担った使徒たちは迫害され、鞭打たれ、投獄されました。教会は迫害にさらされ、弟子たちは殉教しました。伝道も教会形成も苦難を伴いました。「欠けたところを身を持って満たしています」は、言い換えれば、「喜んで参与する、いとわない」という意味です。パウロは何度も死を覚悟し、苦難を喜んで負ったと言っています。しかし、苦難を喜んで身に負っているというのです。
なぜ厭わないのか?「あなたがたの救いのため、キリストの体である教会のためであるから」というのです。パウロは、この苦しみにはコロサイ教会の人々が救われるという目的があると言うのです。この「苦しみ」はヨハネ福音書16章21節の「女が子どもを産むとき、苦しむものだ。しかし、子どもが生まれる、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」の「苦しみ」と同じ言葉です。つまり、この「苦しむ、苦痛」は一人の人間が生まれるための苦しみです。この言葉は苦しみには必ず意味があると信じ、どのような苦しみにも意味があると信じて受け入れる信仰です。
ビクター・フランクルは、その著書「人生があなたを待っている」の中で、「人間の為し得る最高のことは、過酷な運命を克服することである。そして、運命に打ち克とうと苦しんでいる人々を助けることである」と述べています。働き盛りの看護師に進行性のガンが見つかり、それも末期癌であることが告げられました。彼女は当然のことですが、未来を失います。もう看護師として人のために働けないと絶望します。そこで、精神科医のフランクルの診療を受けます。フランクルは彼女に、「看護師としての働きは、他の人が代わることができる。しかし、余命幾ばくもないという厳しい状況の中でも、絶望しないで、永遠の希望をもって、輝いて生きることができるのは、あなたしかいない。あなたが過酷な状況の中で希望をもって、輝いて生きることは、看護師の働きに勝る働きである。あなたの生き方を通して、何人の人が希望を持って生きるようになるか。辛いことですが、あなたとして生きる絶好の機会だ」と慰めます。彼女は慰められ、希望が与えられます。パウロも苦難には必ず意味がある、目的があると言って、コロサイの教会の人々を慰め、希望を与えています。わたしたちも日々の歩み中で、生きる目的と意味を見いだしていきましょう。