与えられたテキストは使徒言行録4章23-31節です。聖霊降臨後、ペトロとヨハネは足の不自由な男の人を、主イエスの名によって癒やしました。また、主イエスに起こった復活を宣べ伝えました。すると、ユダヤ当局は、キリストの名が再び広がり、騒乱が起こることを警戒し、ペトロとヨハネを捕らえ、今後イエスの名によってだれにも話してはならない。犯したらどうなるか、命の保証はないと、脅し命じました。使徒言行録4章18節に「そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した」とあります。ユダヤ当局は活動してはならない。もし、命令に背くなら、主イエスのような目に合わせると二人を脅迫しました。ユダヤ議会は「サンヘドリン」と言い、ユダヤ人の議員、長老、律法学者、大祭司など七十人からなるユダヤの最高議院です。その意味ではユダヤ人国家です。国家のキリスト教に対する脅迫、弾圧がどんなに恐ろしいものであるか、戦争中のホーリネス教団に、またドイツの教会に加えた国家的弾圧を考えれば、想像できす。
19節に「しかし。ペトロとヨハネは答えた。『神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。』。議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。」とあります。ペトロとヨハネは当局から脅迫された後、釈放されました。彼らは仲間のところに戻り、厳しい尋問や脅迫を受けたことを報告しました。それを聞いた一同は、声を揃えて祈ったと言います。
29節に「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留めあなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」とあります。その時のペトロとヨハネの祈りです。普通なら、当局の弾圧と脅迫を恐れて、「この脅迫からわたしたちを守ってください。」とか、「この災いがわたしに及びませんようにしてください」という祈りになると思います。しかし、ペトロとヨハネの祈りは違います。そういう願いをしないで、思い切って大胆に御言葉を語らせてくださいと祈っています。ここにペトロとヨハネらの信仰の本質と命があると思います。この「思い切って大胆に」は、直訳すると「すべての大胆さをもって」となります。「大胆」は「パルレーシア」と言って、「パル・全ての」と「レーシア・語ること」からなっています。つまり、「確信し、臆するところなく、自由に、はばかることのなくすべてを語る」となります。
19節に「わたしたちは見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」とあります。つまり、ペトロとヨハネの信仰の証、証言です。原文は二重否定で、単に「証言する」というのではなく、「証言しないではいられない」となります。また、「話さないではいられない」の原語は「デュナマイ」で「力がある、できる」という意味です。名詞では「デュナミス」と言い、「ダイナマイト」の原語です。ダイナマイトのような爆発的な力であるというのです。言い換えれば、爆発的な力をもって神の言葉を語らせるとなります。
エレミヤ書20章9節に「主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃えあがります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」とあります。エレミヤは神の言葉を閉じ込めておこうとしたが、閉じ込めておくことに、疲れ果て、わたしの負けだと言って、神の言葉の持つ力を表現しています。神の言葉は人に働きかけ、語らずにはいられなくさせるというのです。
4章31節に「祈りが終わると、一同の集まっている場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされ、大胆に神の言葉を語り出した。」とあります。「聖霊に満たされ、大胆に語り出した」は、誰かに、命じられたから、言われたから、義務だから語り出したのではなく、自発的に、自由に、打算なく、語り始めたということを強調しています。このペトロとヨハネの態度は、ユダヤ当局を狼狽させました。13節に「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き(驚きあやしむ、不思議に思う)、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。」とあります。「無学な普通の人」は、「読み書きができない、俗人、素人、門外漢」という意味です。ペトロとヨハネの生き方は俗人の、素人の彼らが、どうしてこんなに大胆に証言するのか、とサンヘドリンの議員が驚き怪しんだほど力強かったというのです。
14節に「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。」とあります。言い換えれば、「この天と地には、あなたが造られないものは一つもありません」となります。「一つもない」と言うのですから、ペトロとヨハネを捕らえ、投獄し、脅迫しているサンヘドリンの議員たちも、神の造られた存在であるというのです。つまり、ペトロとヨハネの祈りは、ペトロとヨハネを死の恐怖の淵に陥れていれようとしている議員たちも、神の御手の中にあると信じることができるようにしてくださいという祈りです。
賀来周一先生は、「脅迫する者も、神によって造られたものであると信じられないなら、真の救い、恐れからの真の解放は得られない。逆に、もし、わたしたちを苦しめたり、痛め付けたり、わたしたちに襲ってくる力が、神によって造られたものであると信じることができるなら、一条の光が暗闇に輝くように、救いの道筋が見えてくる」と言っています。かつて三浦綾子さんもそういう意味のことを言っていました。三浦綾子さんが癌になったとき、「神さまは癌をも造られた」と言っておられました。三浦さんは、「自分の命を奪うガンも神の創造によるものであると思うとき、ガンに対する思いが違ってくる。ガンは自分の命を奪うものであるが、その奥には神の深い御心があると信じることができる、真の平静と平安が与えられる」と言っていました。ガンで亡くなった友人は「この病気もあなたの与えてくださったものと受け入れることができますように。この病気を通して、日常知ることができないあなたの心を知る機会とさせてください。良いと思われることも、悪いと思われることも、すべてあなたの手のうちにあると信じます。人間の目で見て厳しいと思われることの中にも、神が良いとされる何かが隠されていると、信じることができますように」と祈っていました。ローマの信徒への手紙8章28節に「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」とあります。万事が益となるという御言葉を信じて、祈りを深くしていきたいものです。