テキストはコリントの信徒への手紙Ⅰ1章10-17、26-31節で、パウロがコリント教会に宛てた書簡です。1章10節に「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。」とあります。この「勧告する」は「懇願する、真心からお願いする」という意味です。パウロがコリント教会に真心からお願いすることは、10節の「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」ということです。12節に「あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです」とあります。コリント教会の中に分派、派閥を作り、自己やグループを絶対化し、権力争いがありました。多くの人は教会も人間の集まりだから、派閥や分派を作るのも仕方のないと諦めていました。しかし、パウロは、教会はイエスの神の国の具現であるから、心を一つにし思いを一つすることができる共同体であるという信仰から、派閥を作ることは仕方がないと諦めませんでした。
エフェソの信徒への手紙2章14節に「実に、キリストはわたしの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つ体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」とあります。この「敵意という隔ての壁」の「壁」は「垣、堀」、「隔て」は「仕切り」という意味です。「敵意」は「憎しみ、恨みの心」、「取り壊し」は「解き放す、解放する」という意味です。つまり、イエスの十字架を通し、敵意や憎しみを滅ぼし解放し、和解を生み出した。十字架の福音の言葉を聴きながら、依然として争い、憎しみ合っているなら、イエスの十字架の死を無駄にすることであるというのです。
使徒言行録18章1節に「その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。そこで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、職業も同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。」とあります。パウロのコリント伝道を援助したのはプリスキラとアキラという夫婦です。プリスキラは上流階層の出身のローマ人です。アキラはユダヤ人で、天幕作りの職人です。二人の間には、ユダヤ人とローマ人という民族の隔たりがありました。また、当時の社会の中にあった身分の違いもありました。その意味では、二人の間には大きな壁と隔たりがありました。しかし、彼らは二つのものを一つにするというイエスの十字架の贖いを信じ、断絶させるものから解放され夫婦になりました。パウロは、使徒言行録の著者ルカと違って、いつも女性のプリスキラをユダヤ人のアキラの先に記しています。身分の高い彼女が全てをキリストのために捨てて、ユダヤ人の、それも職人のアキラと結婚したからだと思います。それはローマ人のプリスキラが十字架の贖いを信じ、自らをキリストの十字架に重ねた結果だと思います。1章10節に「心を一つにし思いを一つにし、堅く結び合いなさい」とあります。この「一つ」は「同じ」、「心」は「理解、理解力」、「思い」は「意見、判断」という意味です。つまり、「同じ理解の中で、同じ意見の中で固く結び合いなさい」というのです。プリスキラとアキラのように、違った民族、性別、身分の者が一つの共同体を形成する。それは十字架の痛みが生み出す合同、許しの十字架の信仰が生きている合同です。
12節の「あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』、、、などと言い合っているとのことです。」の「つく」は、「同じ、一部」という意味です。「わたしはパウロと同じ、パウロの一部」というのです。しかし、それは主体性を失った隷属を意味します。隷属は自己の絶対化と高慢と差別と歪んだ心を生み出します。イザヤ書7章9節に「主を信じなければ、あなたがたは確かにされない」とあります。つまり、神以外の人間や物を究極的に頼りにするなら、恐れや不安から解放されることはなく、逆に、恐れや不安を隠蔽するために、自らを誇り傲慢にする罪を犯すというのです。12節の「あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです。」の「言い合う」は、「知識、知識に基づいて発言する」という意味です。コリントⅠ8章1節に「知識は人を誇らせる」とありますように、この「言い合い」は人を高慢に、傲慢にさせ、分裂、分断を生み出します。一つの心、一つの思いになることはありません。
コリントの信徒への手紙Ⅰ1章26節に「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしなさい。人間的に見て知恵ある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけではありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられて者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」とあります。「知識、知恵」は、人を誇らせ、高ぶらせ、差別を生み出し、憎しみや妬みの元凶だと言います。コリントは、ギリシャ哲学、教養、様々な知識を持ったギリシャ文化の中心都市で、「知識こそ力なり」というように、知識を信頼し、知識は人を救う力だと考えていました。しかし、パウロは、知識は究極的には人を救うことはできない、むしろ、知識は争いを生み、分裂を生み出すと言います。コリントは物質的、文化的に繁栄した都市でしたが、道徳的、社会的な問題を抱えていました。人間の繋がりは破れ、人の関係はバラバラにされ、孤立していました。パウロは原因は知識信仰にあり、知識は人を謙遜にし、悔い改めさせることはできないと考えています。コリントの信徒への手紙Ⅰ1章17節に「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわないように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」とあります。この「福音」は、イエスの十字架のことです。イエスの十字架は罪を認識させ、自覚させ、悔い改めに導き、神と和解をもたらします。同時に、破れた人間関係の絆を造り上げます。「キリストの十字架がむなしいものになってしまわないように」の「むなしい」は「意味を失わせる、力、効果を失わせる」という意味です。自分を誇り、自己を絶対化し、人間をばらばらにすることは、キリストの十字架の死の意味を失わせることになります。パウロはコリントの教会に、何をおいてもキリストの十字架につながることを求めています。讃美歌21の393番「こころを一つに」はツィンツェンドルの讃美歌です。彼は、いろいろな教派の出身者の人々と共に新しい共同体の形成に労苦しました。そのためには教会員一人ひとりが、直接キリストと結びつかなければと言います。キリストに一人ひとりがつながる時、神の教会が生まれると言います。この難しい時代を生き抜くためには一人ひとりがキリストの十字架に堅く繋がらなければならないと思います。