ペンテコステ(聖霊聖霊降臨日)です。ペンテコステの語源は「ペンタトウーフ」と言い、「第五十」と言う意味です。主イエスが復活されて、50日目に聖霊が降り、教会が生まれ、伝道が始まったことを記念する日です。「霊」は、ヘブル語で「ルーアッハ」と言い、神・ヤハウェの霊のことです。新約聖書では、「プニューマ」と言い、「ハギオス・聖」で修飾し、「聖霊」と言います。
37章5節に「見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る」とあります。この「霊」は、「息、breath(口語訳)、風」を意味します。霊は息や風のように目に見えませんが、身体で感じることができ、揺れる木を見て、風が分かるように、霊を受けた人に起こった現象で分かる存在です。それが「聖霊」です。
エゼキエル書37章4節に「そこで、主はわたしに言われた。『これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け、これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。』」とあります。この「骨」は、ヘブライ語で「エセム」と言い、「心と身体、人間の存在の全体」を意味します。箴言17章22節に「喜びを抱く心はからだを養うが、魂が沈みこんでいると骨まで枯れる」とあります。魂が沈み込めば、骨・人間存在が枯れると言っています。この「枯れる・ラベース」は「干し上がる、しぼむ、渇く」などの意味です。「枯れた骨」は、11節の「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びた」とあるように、失望落胆し、絶望している実存を意味します。枯れた骨、つまり、萎え、萎縮した存在に霊が吹き込まれると、その人を生き返るといいます。
エゼキエルは、第一回の捕囚のとき、ヨヤキム王や指導者と共にバビロニアに捕囚として連行されます。そして、五年後、預言者として神の召命を受けました。24章18節に「朝、わたしは人々に語っていた。その夕方、わたしの妻は死んだ」とあります。エゼキエルは預言者に召命された直後、妻が急死し、妻を亡くされました。エゼキエルは捕囚の打撃を受け、更に愛する妻を失うという二重の打撃を受け、孤独と失望の危機に直面させられました。24章15節に「主の言葉がわたしに臨んだ。『人の子よ、わたしはあなたの目の喜びを、一撃をもってあなたから取り去る。あなたは嘆いてはならない。泣いてはならない。声をあげずに悲しめ。』」とあります。神はエゼキエルに悲しみの素振りも見せてはならないと命じました。神の言葉には深い意味があるのですが、エゼキエルはそのとき神の言葉の意味が良く理解できずにいました。その3年後、第二回目のバビロン捕囚という大悲劇、惨事が起こりました。エルサレムはバビロンのネブカドネッアルによって破壊され、エルサレムに残っていたイスラエルの人々、家族、知人が殺されました。辛くも死を免れた人々はバビロンに捕囚として連行されました。二回も捕囚の苦しみと悲劇を経験しました。イスラエルの人々は悲しみに打ちひしがれ、絶望の淵に投げ込まれ、屍のように、生きていました。その時、エゼキエルは神の厳しい言葉の意味を理解するのでした。つまり、神の言葉は嘆き悲しみ絶望する人々を慰め、力づけるための神の言葉であることを理解するのでした。
エゼキエルは、一つの幻を見せられます。谷底に導かれ、枯れた骨がバラバラに、散らばっている光景です。5節に「これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」とあります。9節には「主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」とあります。枯れた骨の中に、霊が吹き込まれると、不思議なことですが、枯れた骨が生き返るというのです。「生き返る」はヘブル語で「カーヤー」と言い、「存在する、回復する、元気づけられる、希望を見出す、肯定される、起き上がる」などの意味があります。エゼキエルは、絶望し、生きる気力をなくし、生きる目的と意味とを失い、悲嘆に暮れた人々を元気づけ、希望を与え、起き上がらせる使命を与えられたのです。
「霊が吹き込まれる」という表現を受け入れることが難しいならば、「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」とあるように、神の言葉を聞くと理解したらよいと思います。「聞く」は、単に耳で聞くのではない、神の言葉を受け入れて、信じて、委ねていくことです。そうすると生き返る、存在する、回復する、元気づけられる、希望を見出す、肯定される、起き上がるというのです。
38年間も動くことが出来なかった人が、主イエスから「起きあがりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われました。すると、その人は立ち上がって、歩き出したといいます。38年間もですから、長年絶望していました。全く希望の光は見えません。暗闇です。しかし、イエスは、その暗闇、絶望の向こうに希望があると言われるのです。人間の思いや経験を超えた希望をお与えになるのです。
パール・バックの両親は中国へ派遣された宣教師でした。戦争前の話で、中国は大変貧しく、食べる物にも窮していました。宣教師の家には食べる物があるという噂がながれ、飢餓で苦しんでいた村人たちが、焼き討ちを掛けようとしました。それを知ったパールの母は、子どもたちを風呂に入れ、きちんと服を着せ、ご馳走を用意して、その時を待っていました。予想通り夜中に不審な音が聞こえてきました。すると、母はドアを開け、笑顔で村人を招き入れました。暴徒と化した村人は拍子抜けして、襲うのを止めました。パール一家は母親の機転で救われたのです。パールは、「どうしてそのようことができたの」と母に尋ねると、母は「どうしてかしら」と答えたそうです。「こわくなかった」。「こわくてたまらなかったわ」。「どうしてそのような勇気がもてたの」「それはね」と少し考えた母は、「絶望していたからよ」と答えたそうです。パールの母は、逆説ですが、絶望したから、希望が生まれた。希望は、そして、勇気は絶望から生まれると言ったそうです。
エゼキエルも、捕囚として苦悩と絶望を味わい、妻を失う悲嘆を経験しました。正に「枯れた骨」でした。それなのに、神は絶望しているエゼキエルに希望を語ることを命じました。人間的には望み得ないのに、なお神を信じる。希望するすべもなくなったとき、人間の希望ではなく神の希望を見上げ、神の希望を伝えることを求めました。コリントの信徒への手紙Ⅱ1章8-11節で、パウロも、人の望みのつきるところに、主はおられる。人間の可能性が尽きたところから、神の可能性が始まる。そのことを信じて、受け入れることを求めています。絶望の先に何があるのでしょうか。エゼキエルも、パウロも、絶望の先に希望があると言います。その神の希望を見出していきたいと思います。