2023年5月14日 「悲しみは喜びに変わる」ヨハネ16:16-24 創世記18:20-19:29

ヨハネ福音書16章はイエスの別れの説教です。16節に「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。そこで、弟子たちのある者は互いに言った。『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。また、言った。『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」とあります。

弟子たちはイエスの言われることの意味が理解できず、心を騒がせ、不安に襲われていました。その弟子たちを励まし、慰めようとして語られたのがこの御言葉です。

17章14節には、「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。」とあります。イエスは「あなたがたはこの世に属していないから、世から憎まれ、迫害される」と言うのです。それを聞いた弟子たちは、自分たちは、これからどうなるのか、と不安に陥りました。

16章20節には「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」とあります。この「悲しみ」は「心を痛める、恐れる、思い患う」などの意味があります。世に属する弟子たちの恐れや憂いや思い煩いはイエスに出会うことによって、喜びに変わるというのです。この「変わる」ですが、ギリシャ語では、「ギノマイ」といい、英訳では「become」で、ヨハネ福音書では54回使われ、「成る」と訳されています。例えば、1章3節では「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」で使われています。1章10節では「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」で使われています。また、「ギノマイ・成る」には「造り変えられる」という意味があります。16章20節を意訳すると、「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに造り変えられる」となります。この「悲しむ」は複数形で、人生の中で出会うさまざまな憂い、苦難、試練を意味します。それらの苦難と試練が神の創造の御手によって、喜びに造り変えられるというのです。その事実を21節の「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」という言葉で説明しています。子供が生まれる前には不安がありますが、生まれると、新しい命の誕生の感動と喜びで、苦しみは過ぎ去るというのです。言い換えれば、神が新しいものを造り出すための苦しみである。その神の真実を信じ、希望を見出し、苦しみに耐え、克服していってほしいというのです。

ヨハネ福音書16章33節には、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなた方には世で苦難がある、しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」とあります。わたしたちが世に生きる時、次から次へと艱難と苦難に遭遇します。しかし、神はその艱難や苦難や憂いを喜びに造り変えてくださるというのです。ローマの信徒への手紙8章35節には「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。貧しさか、危険か。剣か。『私たちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」とあります。「引き離す」は「奪い去る、引き裂く」という意味です。悲しみや苦難から創造される信仰の喜びは、どのような力をもっても、神の愛から引き離し、引き裂き、奪い取ることはできないと言います。この世の如何なるものも、いかなる権力も、イエスの愛から、わたしたちを引き裂き、奪い去ることはできない。わたしたちを絶望させ、空虚な思いに終わらせることはないというのです。

24節には「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」とあります。この「満たされる・プレロオー」は、「いっぱいになる、満ち足りる、溢れさす」という意味です。15章11節に「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」とあります。原文は「喜びで満たされた」と過去形になっています。ヨハネ福音書は救いの出来事が必ず起こることを強調するために過去形を用いています。「必ず喜びに満たされる」というのです。

ヨハネ福音書が書かれたのは、イエスが亡くなってから、半世紀以上経ってからです。キリスト者として生きることは試練と苦難が伴い、覚悟しなければならないことが度々ありました。しかし、ヨハネ福音書はその厳しい状況の中で、喜びで満たされたというのです。コリント信徒への手紙Ⅱ1章8節には、「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、一つのことを学びました。自分を頼りにするのではなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。」とあります。10節には、「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」とあります。パウロはイエスに委ねるならば、必ず喜びで満たされる。神の喜びに包まれると言っています。

 創世記18章20-19章29節の「ソドムとゴモラの物語」は、古代都市が腐敗と堕落のために滅亡する物語です。アブラハムは罪深い者が裁かれると、正しい者も一緒に滅ぼされるから、ソドムを裁かないでほしいと神に頼みました。しかし、アブラハムの必死の願いは神に届かず、ソドムは滅ぼされました。アブラハムは命がけの努力も無駄だったという空しい思いにさせられました。19章29節には「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。」とあります。ソドムは全滅しましたが、ロトは救い出されました。神はアブラハム一人の祈り聞き、ロトの救いの道を遺されたのです。アブラハムの思うどおりにはいきませんでしたが、神は一人の者を残されました。神は一条の光のようなロトを救い、神の希望の光を残しておいてくださいました。一人を救う神の事実は全てを救う予表です。一人の救いは全ての救いに通じるというのです。神の希望です。その事実を信じて歩んで行きたいと思います。