2023年4月30日 「良い羊飼い」エゼキエル34:1-31 ヨハネ10:7-21

テキストはエゼキエル書34章1-31節です。エゼキエルは、第一回捕囚のとき(BC598)、ヨヤキン王と共にバビロンへ連行されました。捕囚の5年目に、ケバル川のほとりで不思議な神体験をし、預言者として召命を受けました。その7年後、ゼデキヤ王はエゼキエルらの反対を無視し、神の信頼を裏切り、エジプトに援軍を求めました。バビロンのネブカドネッアル王は怒り、エルサレムを侵略し、略奪し、エルサレムはバビロン軍に包囲されました。一年半後エルサレムは陥落し、滅亡しました(BC587)。400年続いたダビデ王国は終熄しました。

預言者エゼキエルは、そのような不幸なことがなぜ起こったのか、その理由を述べています。8節に「わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。」とあります。飼い主(王、祭司、指導者)は、飼い主としての本来の働きを失い、悪行を重ね、私腹を肥やしていると批判しています。4節には「お前たちは弱い者を強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われるものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食になり、ちりぢりになった。わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。」とあります。王、祭司長たち、指導者たちが愛のない悪行を重ねたので、神はバビロニアを用いて、厳しい裁きを下したというのです。

エルサレムは2回バビロンに敗北し、完全に破壊され、民は捕囚として連行されました。するとエゼキエルは一転して神の赦しとエルサレム復興を預言しました。33章11節には「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から、イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよかろうか。」とあります。エゼキエルは、神は悪しきエルサレムが立ち帰って生きることを喜ばれると預言しています。34章23節には「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い。その牧者となる。また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る」とあります。「わが僕ダビデを牧させる」と言いますが、ダビデは五百年も前に王となっていますから、ダビデ王のことではなく、救い主・メシアを意味していると思います。つまり。救い主・キリストの出現の預言、メシア預言だと思います。

ヨハネ福音書10章14節には「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」とあります。「良い羊飼い」の「良い」は、ギリシャ語で「カロス」と言い、「魅力ある、高潔な、慰めに満ちた」という意味です。ちなみに、もう一つの「良い」、「アガロス」は「有用な、役立つ、道徳的知的に優れている」という意味です。この14節の「良い」は、「カロス」ですから、「わたしは魅力的な羊飼い、心の美しい羊飼い、人を真理に導く羊飼い」となります。エゼキエルの言う群れを養わないで私腹を肥やす、弱い者をいじめ、病める者をいやさず、失われたものを探し求めず、力ずくで群れを支配する羊飼いとは全く逆の羊飼いです。「良い羊飼い」は、「羊のために命を捨てる羊飼い」です。

マルコ福音書10章42節に「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなた方の間では、そうではない。偉くなりたい人は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、全ての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の贖いとして自分の命を献げるために来たのである。」とあります。イエスこそエゼキエルが出現を預言した羊のために命を捨てる良い羊飼いであります。

ヨハネ福音書時代の教会の信仰に影響を与えたのがクムラン教団です。クムラン教団の救い主は「義の教師」と言い、祭司たちや長老たちによって苦難を負わされ、殺されます。クムラン教団では苦難を負い、殺されていった義の教師を主・メシアと仰ぐ信仰でした。ヨハネ福音書の教会はクムラン教団の義の教師の信仰に深く影響を受けました。主イエスは義の教師と本質的に違うことを明確にしなければならないと考えていました。10章18節に「だれでもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることができ、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」とあります。イエスの主体性と自由とを重んじる言葉です。イエスは殺されたのではない、意味を見つけ、主体的に自分の命を献げたのであるというのです。イエスは、人が豊かに生きるために、人が真の命を得るために、苦難に打ち勝つために、自ら進んで命を献げたのであるというのです。イエスはカロスの羊飼い、美しい、魅力的な、人々に感動を与え、喜んで神に従う羊飼いです。

14節に「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とあります。この「知る」はギリシャ語で「ギノスコー」で、ただ名前を知る、顔を知っているというような形式、外面的に知ることではなく、その人の存在全体を知ることを意味します。羊飼いは、昼間は羊を牧草のあるところに導き、夕方になると、囲いに帰って来ます。その囲いには、他の羊飼の羊も一緒に入っています。朝になると羊飼いは、自分の羊の名前を呼んで連れ出すそうです。多くの羊の中で、自分の羊を見分けることができるのです。羊はそれぞれ個性、性格があります。羊飼いは一匹一匹の羊の性格を知っています。知らなければ、羊飼いはできないそうです。ガラテヤの信徒への手紙4章4節に、「あなた方は、以前は神々の奴隷になって仕えていたが、今は神を知っている、いや、むしろ神に知られている。」とあります。この「知られる」は、「長年手に入れたいと思いながら手に入らなかったものを手に入れること、承認される、愛される」と言う意味です。神はパウロの存在全体を理解し、愛してくださると言うのです。柏木哲夫さんは、「ホスピスに来られる方の多くの苦しみは、病気の苦しみに増して、長年の苦しみや痛みや辛さが、理解されないという孤立感であります。ホスピスに入所して、誰にも分ってもらえない苦しみと辛さが分かってもらえたという思いになり、苦しみが癒され、平安が与えられる」と言っています。言い換えれば、その人の存在が承認され、肯定されたのです。その承認と肯定が究極的な希望となり、救いになる。イエスはその究極的な承認と肯定を与えようとされているのではないでしょうか。イエスはひとりで、十字架につけられ、死に渡されました。絶対孤独と苦難を経験されました。それはわたしたちを知るためです。わたしたちの悩みと苦しみを理解し、苦しみを共に担うためです。イエスの優しい心に思いを馳せたいと思います。