イエスが祭司長やファリサイ派の人々や律法学者たちによって十字架につけられ、殺されました。弟子の二人は、恐怖と悲しみに、打ちひしがれ、重い足取りでエルサレムからエマオに向かって歩いていました。そこに、見知らぬひとりの人が(実は復活されたイエスです)、彼らに寄り添い、話しかけてきました。話はエルサレムで起こった出来事に及びました。二人は、イスラエルを解放してくれると期待していたイエスを、祭司長たちや律法学者や議員たちは十字架につけてしまった。婦人たちが十字架の死後、三日目に朝早く、イエスの亡骸が納められていた墓へ行きました。驚いたことに、イエスの亡骸はなくなっていたというのです。24章23節に「遺体が見つからずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたというのです」とあります。大変不思議なことですが、イエスは生きておられるというのです。この「生きている」はギリシャ語で「ザオー」と言い、名詞になると、「ゾーエー」と言い、「永遠の命」と翻訳されます。イエスは永遠の命を有し生きているというのです。
福音書は復活を「現れた、見た、生きている」などいろいろな言葉で言い表しています。ルカ福音書では「生きている」と表現しています。「生きている」はギリシャ語で「ザオー」と言い、「死で途絶える命ではなく、死を超えて生き続ける命」を意味します。6節に「あの方は、ここにはおられない、復活なさったのだ」とあります。この「復活」は、ギリシャ語で「エゲイロー」と言い、「起き上がる」という意味で、「死から立ち上がる、死から解放される」ことを意味します。つまり、人を愛し、病人を癒し、貧しい人、苦難の負っている人々の救いのために命を献げたイエスの命は、十字架の死で終わったではなく、今も生きて、働いている。イエスの命は十字架で挫折したのではなく、十字架の死に勝利し、神の栄光と誉れを現しているというのです。
7節には「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」と、34節には「エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。」とあります。この7節と24節の「復活する」は、「アニスティミー」という動詞で、「死から立ち上がる」という意味で、そこから「死に打ち勝つ」となります。主イエスの十字架は、目に見える現象としては挫折に見えますが、信仰の目を持って見るならば、死に打ち勝つ神の栄光を輝かしている。その信仰的事実を明らかにしたのがイエスの復活であるというのです。
コリントの信徒への手紙Ⅰ15章13節に「もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえられなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい」とあります。「死人の復活」は、旧約聖書の黙示的文学の中から生まれた終末的な信仰、究極的な希望を表します。終末的な信仰ですから、自分自身の復活が信じられないなら、キリストの復活は意味を持たないことになります。また、「もし、キリストがよみがえられなかったとしたら、」は、言い換えれば、「もし、キリストの復活が信じられないなら、わたしの人生、わたしが生きることは空虚になる」となります。つまり、イエスの復活信仰はわたしが信じる信仰に深く関係している事実を示しています。
ヨハネ福音書20章6節に「続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。」とあります。二人はまだ理解していないけれど、信じたというのです。つまり、イエスの復活信仰は理解するということより、信じることがより本質的であるというのです。ヨハネ福音書20章27節に「それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」とあります。見ないで信じる信仰が強調されています。
詩人の谷川俊太郎さんと野の花診療所医師の徳永進さんが書簡を交換しています。谷川さんは、徳永先生に「徳永さんは人の死に何度も立ち会っていますよね。徳永さんは、肉体の死んだあとに何かがあると感じていますか。あなたは、死後の世界をどのように理解しますか」と質問しています。徳永先生は「わたしは、死、また死後の世界は『解る』ものではなく、『信じる』ものだと思う。そして、信じることができる人は、その最後を、人生全体を豊かにすると信じています。また、今の時代こそ、『信じる』ことを、再評価、復権させることはできないだろうか」と言っています。「信じる」ことを存在すること、生きること、生活の中心におかなければならないと言われるのです。
イザヤ書7章9節に、「主なる神はこう言われる。『信じなければ、あなたがたは確かにされない』」とあります。イザヤ書30章15節には「わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と」とあります。この「信頼している・バタク」は、「信じる、信用する」です。また、詩編22編10節には、「わたしを母の胎から取り出し、その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。」とあります。「信じる」を「ゆだねる」と表現しています。「力がある」は「力を得る」です。「力を得る」は、本来は「新しい部屋を見つける」という意味で、自分の内側に新しい部屋を見出すという意味です。「復活信仰」は、わたしたちの心の中に新しい部屋、つまり、新しい命、希望を見出すことを意味します。
32節に「わたしたちの心は燃えていたではないか」とあります。この「燃える」は、「激しく燃える、焼き尽くす」という意味です。主イエスを裏切って逃げ出した弟子たちの過去は焼き尽くされ、新しい命、希望が芽生えた。主イエスを裏切った悔いと絶望に支配されていた弟子たちの心は、焼き尽くされ、新たな希望が備えられ、生きる希望が与えられたことを意味します。絶望から希望へ変えられるのです。
ボンヘッファーは1944年4月8日イースターの日、フロッセンヴュルク収容所で絞首刑されました。呼び出される前に、彼はペトロの手紙Ⅰ1章3節の「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生まれさせて(死から立ち上がらせ)、生ける(永遠に生きる)希望を抱かせた。」を読みました。彼は「死は私にとっては新しい命の始まりだ」と、知人のココーリンに言って、絞首台に向かったそうです。復活を信じることは、神の生ける希望を受け入れることです。神の希望を失わないことです。どんな所でも、どんな時にも希望を放棄しないことです。どんな所でも、どんな時にも望みを失わないことは、大変困難で、難しいことです。しかし、その道を歩み続けるなら、その延長上にある光と希望と永遠の生命を得ることができます。その事実を明らかにしているのが、主イエスの復活信仰であると思います。