与えられたテキストは表題に「イエスの姿が変わる」とあるように、イエスが弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られ、彼らの見ている前で、イエスの顔は太陽のように輝き、服は光のように白く変貌した。更に見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと話し合っていたといいます。7章5節に「ペトロがこう話しているうちに、光輝く雲が彼らを覆った。すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。」と物語っています。
この物語の中で重要なメッセージは、「高い山の上に登った」ということです。「高い山」が具体的にどの山か分かりませんが、それぞれの時代に「山」が登場し、重要な意味をもっています。ソドムとゴモラを裁くとき、神は「低地に留まるな。山に登れ」と、ロトに命じています。また、エリヤがアハブ王の迫害に耐えかねて、ホレブ山の頂きに逃れ、身を隠していたとき、神はエリヤに「そこで何をしているのか。立ち上がれ」と命じ、勇気と信仰を与えました。モーセがエジプト人の奴隷として苦しんでいたイスラエルの民をエジプトから脱出させたとき、飲み水と食料が得られず、飢えと渇きで苦しむイスラエルの民は、脱出を導いたモーセを恨みました。奴隷の苦役から自由を求めて脱出したはずなのに、我々を滅ぼそうとしている、どこでも墓になる荒れ野に導いたのだと、モーセを恨み、石で殺そうとしました。そのとき、モーセは「山に登りなさい」と、神に命じられました。モーセはヨシュアを連れ、シナイ山に登り、十戒を与えられました。ルーサー・キング牧師は暗殺されましたが、その前夜の最後の説教の中で「神は、わたしに山に登り、四方を見渡すことを命じ、地を与える神の約束を確信させた」と言っています。
イスラエルの民は窮地に立たされると、「山に登れ」と命じられました。そこで十戒が与えられました。ヤーウェの神は「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。だから、あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と命じています。ヤーウェの神以外の何者も依り頼んではならない。時代や状況は移り変わっても、ヤーウェの神の恵みは永遠に変わらない。ヤーウェの神のみを信頼して行く。そこにイスラエルの生きる道があることを示しました。イスラエルの民は四十数年苦しい旅を続けなければなりませんでした。イスラエルの民が滅びないで、苦しい旅を続けることができたのは、ヤーウェの神の信仰と十戒と希望が与えられ、イスラエルの民が受け入れ従ったからです。
申命記3章には、モーセは再び「山に登る」ことが命じられ、ピスガの山に登ったことが記されています。山頂に立ったモーセは「東を見渡せ」と命じられました。見渡すと、モーセが苦労してイスラエルの民を導き、旅してきた荒れ野が広がっています。更に「西を見渡せ」と命じられ、眺めると、ヨルダン川の向こう側に、神の約束した地が見えました。モーセが苦難と試練に耐えることができたのは約束した神の言葉を信じてきたからです。
しかし、更に厳しいヤーウェの神の言葉が臨みました。3章26節に「主はわたしに言われた。『もうよい。この事を二度と口にしてはならない。ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。お前はこのヨルダン川を渡って行けないのだから、自分の目でよく見ておくがよい。ヨシュアを任務に就け、彼を力づけ、励ましなさい。彼はこの民の先頭に立って、お前が今見ている土地を、彼らに受け継がせるであろう』」とあります。モーセは、「あなたは約束の地に立つことはできない。だから、自分の目でよく見ておくがよい。」という予想もしない言葉が臨みました。神の言葉はモーセにとって晴天霹靂、不条理な言葉でした。モーセの血の出るような苦労は報われませんでした。しかし、モーセはその不条理に、苦難と試練に打ち克つことができました。ヤーウェの神を信じ、委ねる信仰の結果です。モーセは、自分を越えた未来に希望を見出したのです。自分の願望が叶えられるよりも、神の御旨が実現することを祈りとし、願いとすることができたのです。
イエスは今高い山に登られ変貌されました。そして、弟子たちに、「エルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから苦しめを受けて殺され、三日目に復活する」と打ち明けられました。16章22節に「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』。イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』。それから、弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしにしたがいなさい。』」とあります。弟子たちはイエスの十字架につまずき、イエスから離れて行いきました。イエスの群れは崩壊の危機に直面しています。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞えました。「わたしの心に適う者」とは、十字架の道に従い、十字架を負う者のことです。自分を犠牲にする道を歩む者のことです。神学者のバルトは「信仰は損をすることを受け入れることである」と言います。信仰の道はこの世的には損をする道です。しかし、この世的には損をしますが、信仰的には神の恵みを豊かに受けます。
17章2節に「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」とあります。十字架の道の栄光を現し、負う十字架が豊かに報われることを意味します。16章24節に「それから、弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。』」とあります。神の肯定です。十字架の道を生きることに真の命があり、十字架の道を生きる人には希望と勇気とが与えられるというのです。
ルーサー・キング牧師は、「神は私に山に登ることをお許しになった。そこからは四方が見渡せた。私は約束の地を見た。私は、皆さんと一緒に、その地に達することができないかもしれない。しかし、今夜、これだけは知っていただきたい。すなわち、私たちはひとつの民として、その約束の地に至ることができるということである」と言っています。神は私たちを高い山に導き、やがて到達するであろう約束の地、神の国のしるしを垣間見せてくれる。この世のものに失望させられても、終末的な、神の希望があります。信仰を通して見せられた者として、その約束の地を皆に知らせ、皆の進むべき方向を指し示していきたい。神の慰め励ましを伝えることが、神から与えられた役割であると信じたい」と言っています。神の約束を信じ受け容れていきましょう。