2023年2月26日 「試練と希望」 マタイ福音書15章21-28節 

テキストはマタイ福音書15章21-28節の病気の娘を抱えたカナン人の母親の物語です。娘の病気のことで悩み苦しんだ母親が、イエスのところに来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と助けを求めました。すると、不可解なことですが、イエスは何もお答えになりませんでした。ひどく冷たいイエスに見えます。山上の説教では、「求めよ。そうすれば与えられる。探せ、そうすれば見出すであろう。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門を叩く者には開かれる」とお教えになっています。そのイエスなのに、助けを求めてきたカナン人の母親には全く無視するように、何もお答えにならなかったというのです。

そこに居合わせた弟子たちは、大声で叫びながらついてくる母親を「迷惑だから、追い払ってください」とイエスに訴えています。何と冷たい弟子たちでしょう。この「叫びながら」の「叫び」は、「苦しみの中から発する呻き、とくに、神の沈黙のために生じてくる苦しみの叫び」を意味します。このイエスの母親に対する不条理な態度をどう解釈すれば良いのでしょうか。

聖書には、神の沈黙のために苦しむ者の姿が記されています。詩編28編1節には、「主よ、あなたを呼びます。わたしの岩よ、わたしに対して沈黙しないでください。あなたが黙しておられるなら、わたしは墓に下る者とされてしまいます。嘆き祈るわたしの声を聞いてください」とあります。「墓に下る」は死と絶望に陥ることを意味します。母親は神の沈黙のために、深い淵に投げ込まれるような苦しみを経験しています。ルツ記のナオミは「神はわたしをひどい目に遇わせた。神はわたしを不幸に落そうとされた」と、沈黙している神を恨んでいます。カナン人の母親もそうです。求めに何も答えないイエスの現実に直面し、絶望と虚無に陥っています。理解し難いところですが、イエスは更に母親に苦難と試練を与えるのです。24節に「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とあります。イエスはカナン人である母親の求めに答えることはできないと更に強く、母親の願いを拒絶しています。イスラエル人はヨシュアに導かれてカナンに侵入し、そこに住んでいたカナン人を追い出し、定住した歴史があります。カナン人は隣国のフェニキヤのティルスやシドンに逃れていきました。その後のイスラエル人とカナン人の歴史は憎しみ合い、争いの歴史でした。その歴史が、イエスの「あなたのようなカナン人とは関係がないのだ」という拒絶に反映しています。しかし、この母親は拒絶されても、無視されても、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と叫んでいます。この母親の懸命さ、必死さが信仰であるというのです。

25節に「しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください』と言った。」とあります。この「お助けください」は、「悲鳴を上げる」と「駆け寄る」という二つの言葉から成っています。ここだけに用いられている言葉です。母親が悲鳴を上げて、イエスに駆け寄ったとなります。言い換えれば、イエスが受け入れてくださらないはずがないという母親のイエスに対する強い信仰を表しています。母親はわたしこそ失われた羊です。わたしも神に捨てられて、今悩みのどん底にいるのです。しかし、わたしはどんなに拒絶されても、どんなに蔑まされても、どこにも行くことはできません。あなた以外に行くところはないのですと訴えています。母親は異邦人のカナン人でありながら、イエスを信頼し、信仰を明確にしています。

ところが、イエスは、母親の訴えが聞こえないかのように、母親を突き放し、「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言います。「子どもたち」とは、イスラエル人のことです。「小犬」はカナン人や異邦人を意味します。イスラエル人以外の異邦人・カナン人を救うことはできないというのです。

イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と教えているはずなのに、母親に対してこんなに厳しいのはどうしたのでしょうか。しかし、イエスが重荷を負うカナン人の母親を救おうとされていることは確かです。それではこの矛盾をどう解釈すればよいのでしょうか?パウロは「試練は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み出す」と言っています。イエスも真の信仰と希望を与えるために、敢えて厳しい試練を与えようとしたのでしょうか。

母親は「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」と言っています。普通なら三度も願いを拒否されたら、腹を立て、「もう頼みません」と腹を経ててしまいます。しかし、この母親はそうではありませんでした。彼女は、「小犬」と蔑視されることにも耐え、忍耐し、あらゆる試練にひるみませんでした。28節に「そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』」とあります。このカナン人の母親はイエスの賞賛の言葉を頂きました。その時、娘の病気は癒されたというのです。母親の信仰、忍耐、粘り、自由、寛容が、イエスの心を動かしたのです。母親の信仰がイエスの沈黙を破らせ、「あなたの信仰は見上げたものだ」という賞賛の言葉を導き出したというのです。イエス御自身も変わったのです。同時に、カナン人の母親も変えられました。

パウロも大きな病気を抱えていました。その病気を通して大きく変えられました。パウロは病気の癒しを求めて「何度も祈った」と言いますが、癒されませんでした。しかし、パウロは、その病気の故に、「今日あるのは神のお陰げ。」という信仰を告白しています。「わたしの恵みはあなたに充分である。神の力は弱いところで完全に発揮される」という神の真理を知り、病気の人生を受け入れ、積極的に肯定することができました。

「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」とも言っています。病気・弱さが、神に出会わせ、神が共にいるという信仰を確かにする契機になると言っています。病気は誰も避けられません。その病気をどのように受け容れるか。このカナン人の母親のように神を讃える者に導かれたいものです。わたしたちも神を受け入れ、信じ、従っていきたいものです。