イエスの弟子たちが空腹のために畑の麦の穂を摘んで食べました。それが安息日でした。それを目撃したファリサイ派の人々は、「安息日の律法を犯した」と激しく攻撃しました。それに対してイエスは、ダビデが律法違反し、聖なるパンを食べた故事を引用し、弟子たちを擁護したところです。マタイ福音書は、「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」を除いて、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」を引用し、「キリストの罪の赦しと救い」の救済論を展開しています。
「わたしが求める」の「求める」は「喜ぶ、愛する」と言う意味です。「いけにえ」は「献げ物、目に見える犠牲、儀式」という意味です。言い換えれば、「わたしが愛するのは目に見える捧げ物ではない」となります。「わたしが求めるのは憐れみであって、、、、」の「憐れみ」は「母の胎内」を意味し、同じ母の胎から生まれ出た兄弟の間にある篤い愛情、胎から産まれたわが子に対する母の切なる愛を意味します。マタイ福音書はサムエル記上21章のダビデの歴史的な故事を引用し、「神の深い赦しと憐れみ」を明らかにしています。
ダビデはサウル王に命を狙われ、ノブの聖所の祭司アヒメレクに助けを求めました。祭司アヒメレクは、「普通のパンはないが、誰も食べることはできないと律法で定められている神に献げた聖なるパンがある」と言います。ダビデは律法を破ってでも、その聖なるパンを頂きたいと頼みました。祭司アヒメレクはダビデの依頼に、律法を破って聖なるパンを与えました。マタイ福音書は、このダビデの故事を引用して、律法と罪の赦しを明らかにしています。
ダビデは、この出来事の後、イスラエルの王に即位しますが、神の赦しがなけば、王になることはできませんでした。ダビデは、ペリシテ人との戦いで勝利を得、民衆の支持は高まりました。それを妬んだサウル王はダビデを憎み、命を狙いました。ダビデはイスラエルの国内に留まることができず、イエスラエル人が嫌悪したバアルの神を崇拝するペリシテ人の領地に逃げ込みました。イスラエルとはヤコブが神から授かった名前で、「誠実、二つ心でない一つ心」という意味です。この時のダビデはイスラエルの名にふさわしくなく、不信仰、不誠実なダビデでした。しかし、神はこの不誠実なダビデをイスラエルの王に任命されました。ダビデ王の即位は神の罪の許しと憐れみと愛がなければできない事実を証(あかし)しています。
ダビデはイスラエルの王になった後、バテシバ事件を起こしました。部下のウリヤの妻を自分のものにするために、そこへ行けば戦死は免れない戦場にウリヤを送り出し、戦死させます。その汚れたダビデを神は王としたのです。神の不思議な憐れみと愛と赦しを見る思いがします。それはイエスの弟子たちに対する赦しと愛も同じです。ペトロたちは神の赦しと愛があって、弟子として用いられたのです。アブラハムも、モーセも同じです。彼らも罪を犯しています。アブラハムは自分の妻を妹と嘘をついて、エジプトの王に差し出し、多額の金品を儲けています。モーセは同胞のイスラエル人を虐待しているエジプト人を見て、怒りに燃え、殺害します。アブラハムも、モーセも、ダビデも、イエスの弟子たちも罪を犯した弱い存在です。しかし、わたしたちには理解できないところですが、神はそのアブラハムを、モーセを、ダビデを、弟子たちを赦し用いているのです。作家の井田真木子さんは「生きることは、赦され、赦すことであるという事実を証しているのではないでしょうか」と述べています。
14節に「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」とあります。井田真木子さんは、「人は、悪は常に自分の外側にあると思っている。その思いが、自分もこの醜悪な担い手であるという認識を失わせている。人の罪には敏感ですが、自分の罪認識には欠如している。そこに滅びの要因があると思う」と記しています。ファリサイ派の人々は、常に自分は正しい、悪いのは他人と、人を裁き批判していました。マタイ福音書は人を裁くために自ら滅んでいくファリサイ派の人々の姿を鋭く描いています。
1節に「そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。」とあります。11章28節には「疲れた者、重荷を追う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすればあなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」とあります。マタイ福音書は、弟子たちが安息日に麦の穂を摘む物語を「疲れた者、重荷を追う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」というイエスの真の休息の勧めに続けています。つまり、イエスは人を苦しめている律法から解放し自由にしようとしています。人は赦され、赦すことなくして、生きることはできないというのです。人が主体的に、自主的に赦し愛する道を選んでいくことを望んでおられるのです。
8節に「人の子(主イエス)は安息日の主なのである」とあります。「安息日」は「サバト」と言い、「止める、歩を止める」という意味です。「止める」は、漢字で「上」からなっています。つまり、人が「上、神の方」を向いて、歩みを止めている姿を想像させます。歩みを止めて神と向き合う。それが休息、安らぎです。イエスは「わたしは休息の主である」と言って、真の安らぎ、平安、自由を与えられると言うのです。11章30節に「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」とあります。ファリサイ派の人々は、礼拝を守らなければならない、祈らなければならない、愛さなければならない、奉仕しなければならないと命じ厳しい軛を負わせています。ネバナラナイ・義務感が生きる原理でした。しかし、イエスは、「ネバナラナイ、義務感で生きること」から解放し、生きる喜び感謝の世界を与えてくださいます。「負いやすい」は「役に立つ」、「荷は軽い」は「解き放たれる、解放される」という意味です。パウロは「そうせずにはいられないからだ」と言います。義務感や気兼ねから行うことは、どんなに立派なことでも、霊的なものを失います。イエスは心の底から起こってくる思いを受け入れ大事にしくださいます。