2023年1月8日 「門は開いている」 ヨハネ黙示録3:7-8

与えられた御言葉は、ヨハネ黙示録3章8節の「見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。」です。ヨハネを通して与えられた神の言葉です。著者ヨハネはローマ皇帝の迫害のために、パトモス島の牢獄に閉じ込められています。迫害者のローマ皇帝は世界最高の権力 者でした。それに対し、ヨハネも、ヨハネの教会も無力でした。貧しく、小さな群れで、迫害を加えられても、何も抵抗できませんでした。フィラディフィア教会とサルディス教会の何人かは、迫害のために殉教を遂げました。正に暗黒の中を歩んでいる状況でした。

時代は異なりますが、預言者イザヤに、「暗闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(9:1)という言葉があります。「死の陰の地に住む」は、「倒れそうになりながら住む」という意味で、「住む」は「座り込む」という意味です。預言者イザヤの時代も民が倒れ座り込んでしまうほど闇の深い時代でした。ヨハネ黙示録の時代も、厳しい迫害の中で闇が支配し、人々は絶望していました。その彼らに、主は「見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない」と言われるのです。「わたしはあなたの前に門を開いておいた」の「前に」は「権威をもって、力において」という意味です。それが今日の御言葉です。

預言者イザヤは、恐れおののくアハズ王やヒゼキヤ王に、「わたしは神であって人間ではない。肉なる人間により頼んではならない。人間には救う力はない」と神の絶対的な権威を訴えています。主イエスは「体を殺しても、魂を殺すことのできないものを恐れるな。むしろ、魂も体もゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と、主こそ、すべての恐れから解放する絶対的な権威を持った方であると教えています。その主イエスが絶対的な権威をもって、「わたしはあなたの前に門を開いておいた」と言われるのです。どのような現実を見せられても、恐れる必要はない。主の栄光を仰ぎ見れば、慰めと希望を得ることができるというのです。

「開かれた門」ですが、使徒言行録12章のペトロの物語に出てきます。ペトロは捕らえられて獄につながれました。その時、使徒ヤコブはヘロデ王に殺害されて、ペトロが中心的な使徒、指導者でした。そのペトロが捕えられ、獄に入れられました。教会は「もう、終わりだ」と思い詰めていました。しかし、不思議な出来事が起こりました。ペトロが処刑される前夜のことです。2本の鎖で繋がれ、獄屋に閉じ込められていたペトロに、御使いが来て、「さあ、起きなさい。ここから脱出するのです」と言ったというのです。ペトロは「出て行け」と言われても、鎖で繋がれている。門には頑丈な鍵がかけられている。とても脱出できませんと絶望していました。しかし、御使いは、ペトロに「立ち上がるように」言いました。ペトロが立ち上がると、縛っていた鎖は外れたというのです。更に、不思議なことですが、獄屋から出て行くと、固く閉ざされた第一の門が開かれていました。更に、第二の門も開かれていたというのです。使徒言行録は「門がひとりでに開いたので」と言います。「ひとりでに」となっていますが、「開いた」は受動態ですから、「神によって開かれていた」というのです。ペトロは今、主が、あらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだと始めて真実が分かったのです。ペテロは、神が自分の前にある固く閉ざされた門を御自分の権威で開いておいてくださったことを信じることができたのです。

わたしたちは、新年を迎えて、新しい歩みを始めましたが、行く手には、固く閉ざされた門が立ちはだかっていることが予想され、心弱くすることがあると思います。しかし、わたしたちの信頼する主イエスは、「わたしはあなたの前に門を開いておいた」と言われます。この主イエスの言葉を信じ受け入れていきたいと思います。

黙示録4章1節に「その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた。あの最初の声が言った。『ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう』」とあります。ヨハネが四方八方塞がれ、前にも進めない、後ろにも下がれない。「もう駄目だ」と諦めた、その時、神は「見よ」と言われます。「開かれた門が天にある」ことを知ることが出来る、というのです。聖書は「絶対駄目だ。もう終わりだ、万事休す」ということは言いません。

この「門」は、動詞になると、「突入する」という意味です。神がこの世に突入することによって出来る扉、それが「門」であるというのです。また、「機会、好機」を意味します。ギリシャ語で「カイロス」と言い、神の定めた時、救いの時を意味します。「開いた」は、現在完了受動態で神のよって開かれ、今も開かれているという意味です。その信仰的事実を信じて、希望を持って歩んでいきます。

コリントの信徒への手紙Ⅰ10章13節に「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず。試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」とあります。神はユダ王国のアハズ王がシリア、エフライム軍に包囲され、どこにも開かれた門はなく、もう駄目だと絶望したとき、「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」と命じました。「天を見上げ、神に心を向けよ」というのです。

ヘブライ人への手紙12章1節に「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れにかこまれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者またその完成者であるイエスを見つめながら。」とあります。信仰の創始者であり完成者である主イエスを仰ぎ見つつ、歩んで行きましょうと呼びかけています。「見よ、開いた門がある」と言われる主イエスを信じ受け容れましょう。地上の全ての門が閉ざされ、塞がれたかのように見えても、天に神が開いてくださる門がある。神はわたしたちのために開いた門を置いてくださるといいます。この神の言葉を信じ受け容れましょう。