クリスマスを迎え感謝します。8節に「その地方で羊飼いたちが野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである』」とあります。この「今日」はギリシャ語「セーメロン」と言いますが、「今とか、現在とか」という意味があります。旧約聖書の「コヘレトの言葉」の3章に「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、」とあります。その「時」とも解釈できます。ヘブル語で「エース」と言いますが、「定められた時、決定的な時、重要な意味を持っている瞬間、チャンス、出会い、一期一会(人の一生の中での一度の出会い)」を意味します。ダビデの町で決定的な時、神に出会い、交わり時が与えられたというのです。
鶴見俊輔さんは「近代的な時間」と「神話的な時間」という言葉を使います。「近代的な時間」とは、人がこの世のもの、生活、お金、名誉などを得ようと費やす時間、生き方を振り返って検証することもなく、ひたすら忙しく過ごす時間、期間のことです。ギリシャ語では「クロノス」と言い、「ただ過ぎていく時、時間」を意味します。「神話的な時間」とは、預言者エレミヤがあなた方は別れ道に立っていると言うように、人生の中で、大事なことを選びとって行かなければならない決定的な時、瞬間、自分の人生を深く考え考える時、真の自分を発見する時、死を受け入れ時、つまり、人の生きる原点を意味します。鶴見俊輔さんはそれらを「神話的な時間」と言います。「神話的な時間」がなければ、人は真に生きられない、死を乗り越えて永遠の命に生きることができないと言います。
コリントの信徒への手紙Ⅱ6章2節に「今は恵みの時、今こそ、救いの時」とあります。この「恵みの時」の「恵み」は「受け入れられ易い」という意味です。「救いの時」の「救い」は「救われる決定的な時」を意味します。エフェソの信徒への手紙5章16節に「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです」とあります。「用いる」は「十分に生かす、チャンスを生かす、心を開く」という意味です。今は心を開き、主の恵みを受け容れる決定的な時です。つまり、クリスマスは、カイロスの時、主を心に迎え入れる時であるというのです。
11節に「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」とあります。「あなたがたのために」は「あなたの中に」、「生まれた」は「受け入れた」と言い換えることができます。榎本保郎先生は「あなたの心の内にキリストを受け入れたとき、キリストが誕生した。また、その時があなたにとってクリスマスです」と言っています。救い主の誕生は、救い主を受け容れることと密接な関係があり、キリストを受け容れるのがクリスマスであるというのです。
ルカ福音書19章1節以下のザアカイの物語は「ザアカイのクリスマス」ということができるのではないでしょうか。ザアカイは徴税人でしたから、世間から嫌われ、疎外されていました。そして、病気のためか、子どもの背丈しかありませんでした。そのためにいつも劣等感に苦しみ、孤独でした。或る日、ザアカイはイエスが来られると聞き先回りし、背が低いために、そこにあったいちじく桑の木に登って、イエスの来られるのを待っていました。そこにイエスが来られて、いちじく桑の木に登っているザアカイを見上げて、「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われました。すると、ザアカイは急いで降りて来て、イエスを喜んで迎え入れました。この「迎え入れる・ヒゥポデコマイ」は、「ヒュポ・喜んで」、と「デコマイ・受け入れる」という二つの言葉から成っています。9節に「イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』」とあります。この「訪れた・ギノマイ」は「生まれる」という意味があります。「受け入れる」と「生まれる」は深い関わりの中にあります。つまり、ザアカイの心の中にイエスを受け容れた。その時、ザアカイの心の中に、救い主・イエスが生まれたというのです。
クリスマス物語は乙女マリアがイエスを受け容れる物語です。ルカ福音書1章34節に「マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。』」とあります。マリアは天使の言葉を受け容れることができません。しかし、38節に「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」とあります。マリアは天使に慰められ、受け容れがたい事実を受け入れたというのです。クリスマスはマリアの神の言葉の受容物語です。
マリアとは「頑なな、頑固」という意味があると言われます。ディユーラーの「母親の肖像」に描かれている大きな目、尖った頬骨、鼻、意思の強い、頑なな女性を想像します。アリアは神の言葉を受け入れられなかったのではないでしょうか。しかし、聖霊の助けによって、受け入れることができました。そして、受け容れると、生まれ変わったように変えられ、新しい歩みを始めています。その意味では、「クリスマスは再出発の物語」ということができます。カトリック教会のシスターであった渡辺和子さんは「人間にとって大きな喜びは、再出発できることです」と言っていました。マリアも、羊飼いたちも、ザアカイも再出発をしています。彼らはイエス・キリストと出会い、受け容れ、新しい歩みを始めているのです。
カラバッジョに「聖サウロの回心」という絵画があります。迫害していていたパウロが落馬して、キリストに罪を許され、回心する場面です。キリストを迫害する者から、信じる者に変えられる。パウロの再出発の場面です。また、幼子イエスが両手を挙げて、母マリアの方に近づこうとしている聖画があります。それに合わせるように、落馬したパウロが光の方に両手を広げて立ち上がろうとしている聖画があります。使徒言行録9章18節に「すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した」とあります。サウロの再出発の出来事です。クリスマスは聖霊に導かれた再出発の時です。主を見上げて新たにされ、立ち上がって、遅々たる歩みですが、昨日よりも一歩前進する出発するときです。