2022年12月4日 「主の来臨の希望」 イザヤ書8章16-17節 

主を待望するアドベントの季節です。17節に「わたしは待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なおわたしは、彼に望みをかける。」とあります。この「わたしは主を待ち望む」の「待ち望む」は、ヘブル語では「カーカー」と言いますが、「切望する、あこがれる」という意味です。じっと待つ、静かに待つではなく、身を乗り出すように待つ、動的な待望、積極的な希望を意味します。「なおわたしは、彼に望みをかける」とありますように、自分の人生を懸ける積極的な希望を意味します。

在る若者が「この国には何でもある。だが希望だけはない。希望はどこを捜しても、どこにもない」と言っていました。子どもも、大人も、高齢者も皆希望を喪失している時代です。アモス書8章11節に「わたしは大地に飢饉を送る。それはパンの飢饉でもなく、渇きの飢饉でもなく、主の言葉を聞くことのできない飢饉と渇きだ。」とあります。預言者アモスは「希望の飢餓、渇き」を「主の言葉を聞くことのできない飢饉」と言い換えて、イスラエル王国の精神的な貧困と危機を憂いています。イザヤは皆が希望を見出せないと言われるが、なお主に希望を見出そうと思う。また、真の希望は挫折を越えてあると言います。

星野富弘さんの詩に「折れた菜の花」という詩があります。折れた菜の花は重い障害を負った星野富弘さんのことです。「わたしの首のように、茎が簡単に折れてしまった。しかし、菜の花はそこから芽を出し、花を咲かせた。わたしは傷を持っている。でも、その傷のところから、あなたのやさしさがしみてくる」と歌っています。詩人の星野富弘さんの希望は挫折を越えるところにあるというのです。

預言者イザヤは名君のウジヤ王の側近でした。ウジヤ王は南ユダ王国を変革しようとしましたが、アッシリア帝国が台頭し侵略を始めたので、南ユダ王国は防衛のために混乱し、疲弊していきました。富む者と貧しい者との格差は大きく広がり、格差社会を生み出しました。彼らの信仰と精神は腐敗し、心は社会病理的に病んでいました。富める人々は象牙で造ったベッドに寝て、濃い酒を飲み、足腰はよろめき、嘔吐するほどの飽食社会でした。しかし、貧しい人々は、靴一足の値段で売られる。弱い者、病める者、身体の不自由な者は切り捨てられ、救いようのないひずんだ社会でした。ウジヤ王は堕落し矛盾した不正義な南ユダ王国を正そうとしました。イザヤはウジヤ王の改革運動に参加し、中心的な役割を担いました。しかし、不運にも、ウジヤ王は突然ハンセン病に冒され、不条理に苦しみながら亡くなりました。ウジヤ王は預言者イザヤの支え、土台のような存在でしたから、イザヤは大きな挫折を経験し、厳しい現実に打ちのめされました。

6章5節に「わたしは言った。災いだ。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た」とあります。「災いだ」は「滅ぼされる、駄目だ、万事休す」という意味です。南ユダ王国の希望も未来もなくなったように見えたというのです。しかし、イザヤは諦めませんでした。「わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た。」と言っています。神はイザヤにウジヤ王の死を介して、神を信じる信仰を与えるのでした。イザヤはウジヤ王の死に絶望したのですが、絶望を越える希望を見出したのです。イザヤの希望は、希望がなくなった時に与えられる神の希望です。

コリントの信徒への手紙Ⅱ1章8節「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みを失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。しかし、それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようなりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これから救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」とあります。パウロは、信仰は神にかける希望であるというのです。

イザヤ書6章7節に「彼はわたしの口に火を触れさせて言った。『見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。』」とあります。「咎・アーウォーン」は「歪み、神と人間の関係の歪み」を意味します。「罪・ハッタート」も「逸脱する、神との関係がそれる、外れる」という意味です。「咎」と「罪」は、より本質的な事柄で、人間の力や知恵や能力では解決できません。神の力でないと許されないのです。言い換えれば、神の力と赦しの不思議さです。クリスマス物語では、エリザベトが「神にできないことは何一つない」と告白しています。神にはできないことがない。咎と罪の赦しがあるというのです。

イザヤ6章8節に「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしください。』」とあります。9節に「主は言われた。『行け、この民に言うがよい、よく聞け、しかし理解するな、よく見よ、しかし悟るな、と。』とあります、神は「お前がこれから行く世界は、お前の語る言葉を素直に聞くような世界ではない。むしろ、迫害され、憎まれ、拒絶される」と言います。それでも、イザヤはひるむことなく、その道を行く、自分に定められた道だと信じて進むのです。イザヤを前進させたのが希望です。苦難や試練、この世の生と死を超えてある世界に向かわせる希望です。

ヨハネ黙示録4章1節には、パトモス島に閉じ込められたヨハネが、厳しい迫害が加えられ、危機的な状況の中で記した言葉が記されています。「ああ、だめだ」と思った時、天を仰いでみたら、「あそこには開かれた門があった」というのです。わたしたちの目の前が、真っ暗に見え、四方八方塞がっているように見えても、天を仰いで見たら、そこにわたしのために開かれた門がある。駄目だ、もう終わりだということはないというのです。天には塞がれることのない、開かれた門がある。そこには希望がある。そこには打開の道がある。この地上の全てが塞がれても、天にある門は塞がることはないというのです。アドベントは神の希望を聞き、伝える時です。