2022年11月27日 「大いなる光が輝いた」 イザヤ書43章1-7節

アドベントクランツに火が灯され、キリストの誕生と到来を待望する季節です。コリント信徒への手紙16章21節に「マラナ・タ、主よ・来てください」とありますが、パウロは主の到来を篤く待望していました。イザヤ書43章1-7節でも主の到来を待望しています。南ユダ王国はバビロニアによって滅ぼされ、多くの者が捕囚として、バビロンに連行されていきました。イザヤも捕囚のひとりでした。それから50年間、苦難の捕囚生活を送りました。イザヤはその苦難の中で神の言葉を聞きました。

43章1節に「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」とあります。原文は「恐れるな」が文頭にあって、「恐れるな、ヤコブよ、イスラエルよ」となっています。「恐れるな」という言葉は、「恐れるな、モーセよ」、「恐れるな、マリアよ」、「恐れるな、ザカリヤよ」、「恐れるな、ダニエルよ」など、聖書に何回も出てきます。イザヤ書では、「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」。「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる」、「恐れるな、わたしはあなたを助ける」などがあります。「恐れるな」という命令よりも、「恐れなくてもよい。恐れる必要はない」という慰めであり、勧告です。原文には「のため、理由」があります。「わたしがあなたを贖うため、わたしはあなたの名を呼ぶから、あなたはわたしのものだから、」という恐れる必要のない理由を述べています。 

「わたしはあなたを贖う」の「贖う」は「買い戻す、解放する」という意味で、奴隷に売られた人を一番身近な者が買い戻すことを意味します。神は捕囚として外国に連行され、苦しめられ、虐げられたイスラエルの後見人になって、買い戻し、解放すると約束しています。原文は「贖った」と過去形になっていますが、預言者過去と言い、約束が必ず成就することを強調しています。 

「わたしはあなたの名を呼んだ」の「名」は、「本名」のことです。彼らには、本名と現地名の二つの名前があったと言われます。バビロンに連れ去られた時、不本意ですが、創氏改名(新しい氏を作り、名を改める)、親のつけた名前を変更させられました。しかし、神は生まれた時に親がつけた本名を呼ぶというのです。「呼ぶ」は、元来「勇気などを奮い起こす、思い起こさせる」などの意味です。捕囚の民は神に本名を呼ばれ、勇気と希望が与えられたというのです。

捕囚の民の一番辛いことは、バビロン人から「あなたがたの信じている神は無力だ。何の力もない」と、自分たちが一番大事にしていた神を軽蔑されることでした。彼らは深く傷つき、心を弱くしました。その時、「あなたはわたしのものだ」と神は言われるのです。「ものだ」は「属する、尊重する、大事にする」という意味です。申命記7章6節には、「あなたは、主の聖なる民、あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」とあります。神は捕囚の民を宝だと言われるのです。

4節に「わたしの目にあなたは価高く、貴い、わたしはあなたを愛する」とあります。イスラエルの民は戦いに敗れ、捕虜として連行されてきた捕らわれ人で無力です。41章14節に「あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神、主は言われる。恐れるな、虫けらのようなヤコブよ、イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける」とあります。この「虫けら」は本来「ノミ、シラミ、ナンキンムシなど害虫、」のことで、人に害を及ぼす存在を意味します。イスラエルの民は自己の尊厳、掛け替えのなさを見失っていました。神は自己の尊厳を喪失した彼らに、あなたは価高く、貴重な、尊敬に値する存在であると言われるのです。言い換えれば、神は捕囚民に「よし」という絶対肯定を与えています。

7節に、「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者。」とあります。神は、捕囚によって生きる意味や目的を失い、虚しい思いになっているイスラエルの民に神の栄光のためにという究極的な意味と目的を与えています。

ハンセン病患者であった松木信という方に「生まれたのは何のためにーハンセン病者の手記」という著書があります。松木信さんは、高校3年生の時にハンセン病が発症しました。当時、「ハンセン病」になった人は。ひどい差別と迫害を受けました。松木さんも苦しさに耐えきれず、自殺しようとされました。しかし、「何のために生まれたのか」という問いが、思い留めたそうです。自分がこの世に生を受けたのは、何か理由があるはずだ。死ぬのはいつでも死ねる。その疑問を解いてからでも遅くはないという思いに至ったそうです。松木さんは、その後、クリスチャンになりました。「神は、自分は何のために生まれてきたのか。何のために生きるかという問いに応えてくれた」と言っています。

松木信さんは7節の「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者」という御言葉に出会い、神の栄光のために生かされているという事実を信じることができ、神を生きる意味と目的にし、神に役立ちたいという信仰を受け容れることが出来たそうです。

カトリックのシスターの渡辺和子さんは、陸軍教育総監渡邊錠太郞の娘で、父は彼女が9歳のとき、2,26事件で、暗殺されました。彼女の苦難の人生が始まりました。「苦しみにも死にも意味を見出せるとき、その意味はどのような苦しみに喜んで耐えさせる」と述べています。ローマの信徒への手紙14章8節に「わたしたちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」とあります。パウロは生きる意味を見出すと言いますが、それは神からの賜物、贈り物であると言っています。イエスは生きる目的、意味、力、希望を与えてくださるために来てくださったのです。その事実を信じ受け入れていきたいと思います。