2022年10月9日「神の召命」イザヤ書6章1-8節 ルカ福音書5章1-10節

テキストはイザヤの召命体験を記したところです。当時の神殿礼拝では香をたき、礼拝堂に煙が漂っていました。「セラピム」と言って、六つの翼を持ったヘビの彫刻が祭壇に置かれていました。そこに光が射し込み、神秘的な幻想を生み出したといいます。イザヤはその幻想の中で神と出会う宗教体験をしました。5節に「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。」とあります。「災いだ。わたしは滅びる」は、「ああ、わたしはもう駄目だ」という意味で、自分の無力さと罪深さに絶望しているのです。 

7節に「これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」とあります。その時、炭火を挟んだ火鋏をもったセラピムが飛んで来て、イザヤの唇に触れ、罪の赦しの宣告をしたのです。

1節に「ウジヤ王が死んだ年のことである」とあります。ウジヤ王はユダ王国を42年間も治めた立派な王で、イザヤが敬愛し、希望をおいていました。同じ年、アッシリア帝国のティグラト・ピレセル3世が即位し、台頭し始め、ユダ王国を取り囲み、ユダの情勢は不安定になりました。次の王アハズは、主の前に悪を重ねたと言われるように悪行を重ねました。イザヤは迫害を受け、将来に不安を抱きました。イザヤは不安定な中で神に出会う体験をするのでした。同様な体験をペトロもしています。漁に出た或る日、魚が獲れず、失望落胆して港に帰って来て、破れた網を直していると、そこにイエスが来て、もう一度舟を出しなさいと言いました。ペトロは、今夜は駄目だと諦めながら、舟を出し、網を降ろすと、大量の魚が獲れたというのです。その時ペテロは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と言って、イエスの足下にひれ伏したといいます(ルカ5章)。

ドイツの宗教学者ルドルフ・オットーは、「ヌミノーゼと言って、人間が聖なる神の前に立つと、畏れ、畏敬の感情を持つ。同時に、価値観と生き方の転換が起こり、生きる使命と目的が与えられる」と言います。イザヤもペトロも神に出会い、古い自分に固執しないで、解放され、新しい存在にさせられたというのです。小さく、汚れた、罪深い自分を認識させられますが、同時に、神の「良し」という絶対肯定を聴き、罪を許され、受け容れたという経験をしたというのです。

8節に「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』」とあります。7節までは、「見たこと」を語ってきましたが、ここからは「聞いたこと」を語っています。「わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしをお遣わしください。」とあります。イザヤは神の召命を受け入れました。つまり、イザヤの召命は、「聞く」ことで始まっています。パウロは、「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」と言っています(ローマ10:17)。この「信仰は聞くことにより」の「より」は、「源、原因、起源」を意味します。「聞く」ことが信仰の源、始めであり、終わりであり、全てであるというのです。この「聞く」はギリシャ語で「アコエー」と言い、「耳、聴覚」と言う意味です。信仰の起源は「耳、聴覚」となります。聞くことが人の成長過程で、最も大切であると言われますが、聞く力は想像力を育て、心の中に葛藤や内面的な戦いを生み、熟慮させ、主体的な決断を生み出します。ルカ福音書9章61節に「『主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。』イエスはその人に、「『鋤に手をつけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』と言われた。」とあります。イエスは決断するために招いています。従うか、従わないか、自由な中で神の従う道を自ら決断させようとしているのです。

8節に「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』」とあります。イザヤは神の言葉を聴きました。礼拝中ですから、誰かを特定して語ったのではなく、誰もが聞いたはずです。その中で、イザヤは、自分に向けられた言葉として聞き、応答しました。また、祭司が語った人間の言葉を神の言葉として聴いたのです。そこにイザヤの信仰の本質があると思います。

「誰を遣わすべきか」は、意訳すると「わたしは誰かを遣わしたい」となります。「誰がわれわれに代わって行くだろうか」は、「誰か、わたしたちのために行ってくれませんか」となります。つまり、神の呼びかけです。その神の呼びかけに、自由な中から応答したのです。信仰は、わたしたちに呼びかけている神に、「神様」と応えることで始まるというのです。

「われわれに代わって」ですが、神が複数形になっていますが、神の尊厳をあらわす表現の一つです。「神のために」の「ために」はヘブル語で「ラメダ」と言い、「~ための発見」という意味です。別の言葉で言い換えれば、生きる究極的な目的、使命、意味を見出す。イザヤの生きる使命を発見したのです。「わたしをお遣わしください」は、イザヤが新しい存在にさせられ、立ち上がって、新しい一歩を踏み出すことを意味します。

夏目漱石が大正3年に学習院大学で行った講演の中で、「わたしはこの世に生まれた以上何かをしなければならないと思っていたが、実際は、何をして良いのか少しも見当がつかなかった。わたしはちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦んでしまった。あたかも嚢の中に詰められて、出ることのできない人のような気持ちがしています。わたしは手にただ一本の錐さえあれば、どこか一カ所突き破って見せるのに、と思っていたが、見つからないで焦っていた。その錐は人から与えられることもなく、また自分からも発見する訳にも行かず、ただ、腹の底では、この先自分はどうなるだろうかと思って、人知れず憂鬱な日を送ったのであります」と言っています。真面目で誠実な漱石ですから、人生の目標や使命を見いだせないで苦しんでいることを語っています。嚢の中に閉じ込められた閉塞状態を打ち破る錐を探していたと言います。神の言葉は、私たちを閉じ込めている袋を打ち破る錐ではないかと思います。神の言葉を自分に向けられたと聴き、新しい命と使命を与えられたいと信じ受け容れたいと思います。