イエスが子ろばに乗ってエルサレムに入城された翌日のことです。イエスはベタニヤを出るとき、空腹になられ、いちじくの実を取って食べようと思い、そこに葉の茂っているいちじくの木を見て、実がなっていないかと近寄られました。しかし、実がなっていませんでした。14節に「イエスはその木に向かって、『今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように』と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。」とあります。この「言われた」は「呪われた」という意味です。20節に「翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。『先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。』」とあります。イエスが「いちじくの木を呪う」ということは多くの人を困惑させてきました。実がなっていないと言われますが、いちじくの季節ではないのですから、実がなっていないのは当然です。それなのにイエスは呪うとは、どういうことでしょうか。理不尽なことであると思います。ルカ福音書は理不尽と思ったのか、この記事を記載していません。解釈の難しい箇所です。
文脈的には、「いちじくの木を呪う」が11章12-14節に、「神殿から商人を追い出す」が15節-19節に、「枯れたいちじくの木」が20節-21節にあります。「神殿から商人が追い出される」が「いちじくを呪う」と「いちじくの木が枯れる」の間に編集されています。その文脈から解釈したいと思います。15節に「それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された」とあります。イエスはずいぶん乱暴なことをして両替人と商人を追い出しました。両替人が日頃使っていた貨幣はローマの貨幣でしたが、エルサレム神殿に献金するときは、ユダヤ貨幣でなければなりません。そのために両替をしなければなりません。両替には多額の手数料が必要で、ユダヤ神殿当局は莫大な儲けを得ていました。また、鳩を献げる習慣がありました。その鳩を高額な値段で売って、利益を得ていました。つまり、エルサレム神殿は神を礼拝する場所ではなく、金儲けの場所になっていました。金儲けが第一で、信仰の本質を失い、信仰は拝金主義に陥り自分の利益やお金儲けの宗教になっていました。
ルターの宗教改革前の教会も堕落していました。ローマ教皇は聖ペトロ大聖堂を建築するために免罪符を発行しました。ルターは一般市民がその免罪符を喜んで買い求める姿を見て、強い衝撃を受けました。ルターはヴィテンベルク城教会の扉に95箇条の提題を貼って、免罪符を激しく批判し、悔い改と改革を迫りました。1517年10月31日のことです。
イエスの時代も同じことが起こっていました。17節に「そして、人々に教えて言われた。こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである』。ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしてしまった」とあります。「強盗の巣」は旧約聖書のエレミヤ書11章7節の引用です。バビロン捕囚前のことです。多くの偽預言者たちはお金や物を献げれば、罪は赦され、救われると言いました。しかし、お金や物を献げても、罪は許されることはありませんでした。預言者エレミヤはお金や物を献げても罪は許されない、真心から悔い改め、信仰の本質を取り戻さなければならないと主張しました。イエスも同じです。エルサレム神殿で行われていたことは、信仰の本質から離れている。「強盗の巣」は「強盗が罪の追求を逃れて逃げ込む場所」を意味します。強盗が巣に逃げ込んでも、罪は許されません。神殿にお金や鳩を捧げて礼拝しても、その人の生き方や在り方は変わらないというのです。彼らは神殿にいけにえを捧げる。つまり、律法的、形式的に行えば、それで罪が許されると思っていました。しかし、イエスは本質の伴わない形骸化した律法的、形式的な信仰では許されないというのです。
編集を見てみますと、15-17節の「神殿から商人を追い出す」が12-14節の「いちじくの木を呪う」と「いちじくの木が枯れてしまう」という記事に挟まれています。「いちじくの木」は神殿信仰を象徴しています。いちじくの木は幹に繋がらなければ実りません。信仰もイエスに繋がらなければ、真理に至ることはできません。わたしたちも真実なもの、命あるイエスに繋がらなければならないというのです。
ヨハネ福音書15章4節に「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」とあります。ぶどうの枝が幹に繋がっていなければ、実をならすことができないように、枝であるわたしたちが幹であるイエス・キリストに繋がっていなければ、実を結ぶことはできません。
フイリピの信徒への手紙4章11節に「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」とあります。どのような状況におかれても、希望を持って生きることができる。それがイエスに繋がる恵みです。神はだれ一人枯れることを望みません。イエスに繋がっていきましょう。