テキストのマルコ福音書11章1-12節はイエスのエレサレムへ入城が記されています。イエスは子ろばに乗ってエルサレムに入城しました。どうして立派な馬ではなく、小さな子ろばに乗って入城したのでしょうか?それは預言者ゼカリヤの信仰の影響です。ゼカリヤは紀元6世紀に活動した預言者です。
ゼカリヤ書9章9節に「娘シオンよ、大いに躍れ、娘エルサレムよ、歓喜の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」とあります。エルサレムを救う王がやって来ると預言しています。しかし、王が誰であるかは分かりませんでした。その王は子ろばに乗って来るという預言しています。常識的には、王のエルサレム入場ですから立派な馬に乗ってきます。しかし、預言者ゼカリヤはその王は子ろば乗って来ると言うのです。「ろば」は「愚かなもの」を意味します。ろばのような人と言えば、「愚鈍な人」を意味します。イエスはその「ろば」に乗って入城したのです。さっそうとした姿ではなく、よろよろ、のろのろエルサレムに入城したのです。
イエス時代の過越祭の時は多くの巡礼者がエルサレムに集まりました。その大群衆の中をイエスは子ろばの背にチョコンと乗って、子ろばですからイエスの両足は地に着いて、ちょこちょこと入城しました。その入城は滑稽で奇妙な行進でした。この滑稽な入城はイエスの優しさの表れです。勿論、他の誰かから強制されて行われたことではありません。自分で選び取った行動です。子ろばを選んだのはイエス御自身です。それはイエス・キリストの優しさです。荒々しい馬で、人を蹴散らしながら入城したのではありません。滑稽な姿を受け入れ、それを喜ぶイエスの優しさです。なぜイエスは、そのような道をお選びになったのでしょうか。それはわたしたちを生かすためです。わたしたちが絶望しないで、わたしがわたしとして最期まで希望をもって生きるためです。
ゼカリヤ書9章10節に「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ、戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和を告げられる」とあります。預言者ゼカリヤは子ろばに乗ってエルサレムに入城する王について預言しています。ろばは小さく、足も遅い、性格も大人しいです。戦いのためになりません。農耕や荷物運搬のために用いられます。ろばに乗って来る王は争うことはありません。戦いのための戦車も軍馬を絶たれ、戦いのための弓も矢も廃棄します。そのような王は一度も現れたことはありません。王は力で人を押さえつけ、戦いで勝利を得る王です。しかし、子ろばに乗ってくる王は貧しく、へりくだって、平和をもたらす方です。
聖フランチェスコの祈りに「主よ、わたしをあなたの平和の器にしてください。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、闇のおおうところに光をもたらすものにしてください」とあります。イエスは憎しみ合い、争いや分裂、いさかいのあるところに平和をもたらすために子ろばに乗って来られたのです。
1、2節「イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。『向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐにここにお返しになります、と言いなさい。』」とあります。「すぐにお返しになります」は、イエスの考えが表れている言葉です。世の権力者は必要だと思ったものはなんでも取り上げてしまいます。戦争の時には徴兵と言って、軍隊に駆り立て、その命を権力者の意のままにします。徴用と言って、無理矢理に集め、国の用に立つために働かせました。人間だけではありません。教会の鐘も兵器にすると取り上げてしまいました。そして、一切それらを返すことはありませんでした。それが世の権力です。自分たちの好きなようにできると思い込んでいるのです。しかし、イエスは自分の好きなようにすることは決してありません。「すぐに返します」と言われます。言葉通り子ろばは元の持ち主に返されました。イエスは高ぶることはありません。へりくだり、柔和な方です。自分のものだといってやりたい放題をすることは決してありません。逆です。わたしたちのものを取り上げることはありません。逆です。わたしたちのために全てを献げ、命まで与えてくださいました。取り上げられるのではありません。十分に用いてくださいます。わたしたちが自分なりに生きることができる道を造ってくださいます。
イエスはわたしたちを最大限に用いて生かしてくださいます。イエスが子ろばを用いたと言うことは、その事実を証明しています。ろばは律法によれば、そのままでは神に献げられない、御心のかなわない汚れた動物でした。しかし、イエスは子ろばを敢えて用いられました。それは、わたしたちにとって希望であり、喜びであり、慰めであります。わたしたちは子ロバです。人を乗せたことのない、乗せればよろよろとよろけて躓いてしまう、足りない者であります。パウロの言われるように「土の器」です。すぐに水漏れを起こしてしまう素焼きの器です。その土の器であるわたしをイエスは用いてくださる、必要だ、役立てると言われるのです。
わたしたちは激しい競争社会の中で、いつも目に見えるもので計られ、評価されています。そのために焦り、不安に陥り、失望し、自信を失っています。しかし、イエスは人間の目を全く違った眼差しで、わたしたちを見てくださいます。それぞれ個性があるように全く違った賜物や能力をもっていることを知ってくださり、わたしたちを用いてくださるのです。わたしたちは主に用いられるのです。他の人が何と言おうと、主イエス・キリストにとって必要な存在であるというのです。イエス・キリストのために必要な存在として、生かされているのです。