2002年7月31日 「ペトロの信仰告白」マルコ福音書8章27節-9章1節

与えられたテキストはマルコ福音書8章27節-9章1節です。イエスがフィリポ・カイザリアで弟子たちに「あなた方はわたしを何者だというのか」と問われました。すると弟子を代表するようにペトロは「あなたは、メシアです」と答えています。それは大きな出来事で、はじめてイエスをキリストと信じ、告白しました。教会にとって全く最初の告白ですから、キリスト教の歴史にとって決定的な出来事であります。ペトロの告白の本質的なことは、イエスがペトロに告白を強制したからではなく、ペトロが主体的・自発的に告白していることです。つまり、ペテロの主体性、ペテロの自由と責任が尊重されているところにあると思います。
ペトロのキリスト告白ですが、新共同訳では「あなたはメシアです」と、口語訳では「あなたこそキリストです」となっています。「あなたはわたしの主・キリストです」となります。言い換えれば、「あなたこそわたしの主体、主人です」となります。
ローマ信徒への手紙14章8節に「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものです」とあります。パウロは「イエスこそわたしの主、わたしの創造主、主人です。わたしは徹底的に造られたもの、あなたに従うものです」という告白をしています。
32節に「サタンよ、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」とあります。「引き下がれ」は「後ろに廻れ、前に立つな、導き手になるな」という意味です。イエスの前に出て、「わたしは、わたしは」と、イエスを教え、導こうとするのはサタンであるというのです。それは逆ではないか。あなたはわたしの後ろに廻り、わたしの後についてきなさい,というのです。ペトロが主人ではありません。イエスが主です。ペトロは従う者です。主と従が逆転することがあってはならない。この真理の上に教会は立っているのだというのです。
34節に「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とあります。人間は徹底的に従う者です。キリストの前に出ることは許されません。35節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うであろう」とあります。ペトロがイエスの前に出たら命を失ってしまうのです。本当の命はイエスの後ろに廻らなければ与えられないのです。イエスの背中が見えるところに立つのです。イエスの背中を見て、その背中に従って歩むのです。そうすれば本当の命に導かれるというのです。その意味ではペトロのキリスト告白は、わたしたちにとって決定的なことであり、わたしたちの全てがかかっていると言うことが出来ます。
もう一つのことですが、フィリポ・カイザリアで告白がなされた意味について考えたいと思います。フィリポ・カイザリアは地理的にはイスラエルの最北端に位置します。ヘルモン山の麓でヨルダン川の源流で大きな滝もあり、自然に恵まれた場所です。ヘロデ大王の子のフィリポは自分の地位を得るためにローマ皇帝に別荘を建て、また、皇帝礼拝のために神殿を建てて贈ったと言います。そのフィリポと皇帝の名カイザリアを取って、地名を改めました。ギリシャ名では「パニアス」と言います。パニアスは「パンの神」という意味です。そこではパニアスの神と皇帝礼拝が盛んに行われていたといいます。お金や物を与えてくれる神、物質的な豊かさを約束する神をあがめ、夢中になっていました。ローマ皇帝を神のように絶対化する皇帝礼拝も盛んに行われていました。それを行わなければ厳しく処罰を受けました。そういう中で、イエスを「わたしの主」としました。主イエス・キリスト以外のものにつながらない。イエス・キリストが唯一の希望であり、救いであると信じ、従うことを求められたのです。
33節に「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』」とあります。ペトロはイエスを主キリストと告白しながら、すぐに,その道からはずれてしまいました。イエスだけにつながっていることが出来ませんでした。ガラテヤ2章を見ると、ペトロがパウロに叱責される場面が記されています。ペトロはキリストに従うと言いながら、人を恐れ、人の顔色をうかがっていたために、キリストの本質を見失っているのです。そのためにパウロから厳しく叱責されたのです。
「神のことを思わず、人間のことを思っている」というイエスの言葉ですが、「思う」は「一つのことを思い続ける。いつも同じ方向に思いを抱く」という意味です。常日頃いつでも神の方向に心が向いているようにと言うのです。フィリポ・カイザリアは、ヘルモン山に降った雨が地下水となってこんこんと湧き出て、流れになっているヨルダン川の水源地と言われます。東山啓に「水源をめざして」というエッセイがあります。わたしたちの人生は水源を、いわゆる、本質を目指して歩むものでありたいと言っています。
モーリアックは84歳で亡くなられましたが、「わたしは幼な心に信じたことを今そのまま信じている。人生には意味がある。行く先がある。価値がある。一つも苦しみも無駄にならず、一粒の涙も忘れられることはない」と墓碑銘に記してあります。
「あなたこそ主イエス・キリストです。生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」という告白を心の内に持ち続けたいと思います。神は必ず新しい道を切り開いてくださいます。その事実を信じて、人生の水源をめざして歩んでいきたいと思います。