イエスは五つのパンと二匹の魚で五千人の群衆を養った後、解散させ、弟子たちは舟でベトサイダに行くことを命じました。45節に「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間にご自分は群衆を解散させられた。」とあります。この「強いて」はギリシャ語で「アナグカサ」と言い、イエスの信仰を理解する時の大事な言葉です。コリントの信徒への手紙Ⅰ9章16節に「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」とあります。その「そうせずにはいられない」が「アナグガサ・強いて」です。「福音を告げ知らせる」、つまり、伝道は誰かに強制され、自己の外側から押しつけられてするのではなく、内側から起こってくる内的な促しであります。内的に定められた定め、アイデンティです。そうせずにはいられない、内的な促しであります。また「アナグガサ」には「無くてはならぬ、必要」という意味があります。弟子たちはそうせずにはいられない。弟子であるために舟に乗って、ベトサイダに向かったというのです。それが「強いて」ということです。誰にも強制されるのではなく、主イエスに命ぜられたので、そうしないではいられない、自由と責任で生きていく。その事実を伝えているというのです。
遠藤周作は「学生時代にカトリックの岩下壮一司祭の影響を受けた」と述べています。岩下司祭は日本のカトリック教会を代表する人物です。東京大学哲学科で学び、願いは学者になって、東大の教授になることでした。しかし、一冊の著書も残すこともありませんでした。御殿場にある重い皮膚病のハンセン病の施設の神山復生病院と施設の責任者として生涯を送られ、また、重い病気や貧しい子どもたちのために尽くされました。
岩下司祭は「人生を自分で造ると思ってはならない。自分が造るのではなく、神の御心に従って生きるのである。わたしは自分の人生について計画を立てることはない。なぜなら、神から『行け』と言われれば、どこにでも行かなければならないからである」と述べています。岩下司祭の願いは書斎で読書をし、著書を書くことでした。しかし、そのような人生を歩まれませんでした。神の御旨にて生きたからです。その道を歩んだからこそ岩下司祭が岩下壮一になったというのです。岩下壮一は遠藤周作や安岡章太郎や多くの人々に大きな感化を与えています。誰でもない、主イエスに強いられて生きるとき、わたしがわたしになり得ると言っています。
イエスに強いて舟に乗せられた弟子たちは、しばらく行くと逆風に行く手を阻まれました。舟には馴れているペトロとアンデレが乗っていたのに漕ぎ悩んでいます。周りは暗闇で、激しい突風が吹きつけ、波は逆巻き、今にも舟は転覆しそうになり、弟子たちは恐怖で身がすくみ、思わず「助けて」と悲鳴をあげました。この出来事は海上の出来事だけでなく、弟子たちが伝道に遣わされたとき、度々行く手を阻まれた経験を意味します。弟子たちは嵐に出遭うたびに、「主イエスに強いられて」からだこそと信じました。他の誰かに強いられてここにいるのではない。宿命とか運命とか、そういうことでもありません。主イエスがここに生きなさいと命じていると信じたからです。「主イエスが」という信仰があったが故に、弟子たちは苦難に耐えて生きることが出来たのです。主イエスが期待してくださるから、喜んでくださるからと信じるが故に逆風の中を進むことができたのです。
48節に「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫びました。皆はイエスを見ておびえたのである。」とあります。「幽霊」は「ファンタスマ」と言って、「存在しないもの」という意味です。弟子たちは、イエスが生きておられるのに、存在しないと思い込み疑ってしまったのです。泣き叫ぶ弟子たちの姿は、苦難に出会い、イエスの実在を疑って、恐れ戸惑う弟子たちの姿を描いています。
50節に「皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた」とあります。「安心しなさい」はヨハネ福音書16章33節に「あなたがたには、この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」とありますように、「勇気を出しなさい」という意味です。主イエスは「勇気を出しなさい。恐れることはない。わたしだ。」と、逆風に翻弄され、幽霊を見て、悲鳴を上げる弟子たちを勇気づけています。
「わたしだ・エゴー エィミィ」は、意訳すると「わたしがここにいる。わたしだ。わたしだ。恐れることはない」となります。イエスが舟に乗り込まれると、逆風は静まりました。イエスが共にいてくださる信仰によって、弟子たちの恐れは取り除かれました。マルコ福音書4章35-41節にも「逆風を静めるイエス」の記事が記載されています。主イエスは激しい逆風に襲われ、恐れ戸惑う弟子たちに向かって「なぜ、そんなに恐がるのか、どうして信仰がないのか」と言っています。マルコ福音書は逆風が弟子たちを襲う経験をしばしば記しています。教会は何度も逆風に襲われるような経験に出遭い、逆風の中で一歩も前進することの出来ない厳しい思いをさせられたのです。その時、主イエスは湖上を歩いて助けに来てくださいました。「勇気を出しなさい。わたしはすでに勝っている」と言って、弟子たちに寄り添ってくださいました。今も生きて働いている主イエスはわたしたちが、どんな状態に置かれても寄り添い支えてくださいます。