会堂司のヤイロと名前のない一人の婦人が登場します。この二人を主人公とする二つの物語が巧みに編集され、あたかも一つの物語のようになっています。それは,二つの物語が共通したテーマを取り扱っているからだと思います。ヤイロも婦人も非常に厳しい状況におかれています。ヤイロには一人の娘がありました。平衡記事のルカ福音書では「12歳くらい」となっています。この時代では12歳と言えば結婚しても良い年頃です。ヤイロはいつもこの娘の幸せを願い、成長が喜びであり生き甲斐であり、ヤイロにとって自慢の娘でした。ところが、その最愛の娘が死に瀕する病に襲われたのです。
42節に「少女はすぐに起き上がって歩きだした。もう12歳になっていたからである」あります。「12」は特別な意味を持った数字で、「完全、輝かしい,栄光に富んいる」ことを意味しています。ヤイロにとって娘は宝でした。その娘が死に瀕する病になったのです。ヤイロは気が狂わんばかりに苦しみ絶望感に打ちのめさせられました。
もう一人の主人公は名もない婦人です。彼女は12年間も婦人病に苦しんでいました。どれ程の財産があったかは分かりませんが、その財産も使い果たして、もう医者にかかるお金もなくなってしまい、もうどうにもならなくなり彼女も絶望するしかなかったというのです。この物語の二人は共に力尽きています。完全に力尽き、死ぬしかないと思い詰めていました。ところがイエスに出会い、その絶望の中から希望が与えられ、救れるのです。
34節に「娘よ。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」とあります。彼女は信仰によって救われたと言いますが、「わたしはあなたを信じる」という告白を伴った信仰ではありません。また、「あなたはわたしの主、キリストです」と明確に表している信仰もありません。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込んで、イエスの服にそっと触れただけです。彼女はイエスの服に触れば、癒して頂けると思ったのです。苦しんで、苦しんで耐えられず、力尽き、ちょっと触れてみたのです。誰にも気づかれずに触れました。
イエスが触れたのは誰かと尋ねられたとき、わたしが触れましたと確かな信仰を証しするように、前に出て行ったのではありません。「震えながら進み出てひれ伏した」と記しています。イエスに触れたことを恐れ、恥ずかしく思っていました。出来るならば隠しておきたいと思っていたというのです。しかし、余りにも苦しく、どうすることも出来ず、力尽きて、ただ手を伸ばしただけでした。しかし、イエスの救いは、それだけで十分です。イエスに救われ、新しい命を与えられるのは、それだけで良いというのです。
ヤイロの場合も同じです。会堂長と言いますから、ファリサイ派で社会的に身分の高い人でした。その立場を忘れたように、イエスの足下にひれ伏したというのです。自分の家に来て娘の病気を癒して欲しいと願い出ています。願いで出ましたが、ヤイロのイエスに対する信仰は記されていません。娘が重い病気にかかり、その悲しみと苦しみのために自分の身分を忘れてイエスの足元に身を置いただけです。イエスはヤイロの願いを受け入れ、彼の家に向かいました。その途中、イエスは長血を患う婦人に関わり時間をとってしましました。ヤイロはその間、娘のことが心配で居ても立ってもいられなかったことでしょう。その時、ヤイロの家から使いが来て、「お嬢さんは亡くなられました。先生に来て頂かなくてもよくなりました。先生を煩わすには及びません」と言うのです。もうイエスは必要ではないというのです。もうヤイロとは関わりがなくなりました。ヤイロには「イエスは娘を必ず癒してくれる」という信仰はありませんでした。娘は亡くなったから、イエスは必要ではないというのです。
ところが、イエスはそういう不信仰なヤイロに関わり救おうとされるのです。9章には「引きつけを起こす」息子を持った父親が救われる物語があります。その父親は「信じます。不信仰なわたしをお助けください」と願っています。この父親も確かな信仰を持っているから救われるというのではありません。不信仰なわたし、疑い深く、少しのことで動揺し取り乱してしまうわたしを救って欲しいというのです。ヤイロも同じです。イエスは絶望する者、力尽きてしまった者を、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言葉を与え、救ってくださるのです。
ヤイロと長血を患っている婦人は「信仰」の本質を表現していると思います。信仰は本質的にはこちら側のものではありません。神の側のことです。神から語りかけ、働きかけてくださることによって起こります。ヤイロの娘や長血の婦人が癒されたのは、彼らの中に「力」があったからではありません。30節に「イエスは自分の内から力が出ていったと気づいて」とあります。癒しと救いは徹底的にイエスの力です。
41節に「そして、子供の手を取って、『タリタ クミ』と言われた。これは、『少女よ、わたしはあなたに言う。起き上がりなさい』という意味である」とあります。人を癒し,救い、起こし、生かす力がイエスの内にはあるというのです。
イエスはイエスの背後から着ていた衣に触れようと思った婦人に「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。「信仰」はギリシャ語で「ピスティス」と言い、「信仰、信頼」という意味です。苦しみの中にあって、なお神の救いの力、イエスの力に希望を見出して行く、委ねて行く、ひたむきに求めていく姿勢を意味します。別の言葉で言い換えれば、「諦めない、望みを捨てない」となります。ひたすらイエスに向かっていく態度です。イエスは、表面を見れば信仰、信頼があるように見えないヤイロや長血を患う婦人を、「あなたの信仰があなたを救った。恐れることはない。ただ信じなさい」と言って、信仰ある者と見てくださるのです。からし種しかないような信仰に目を留め、寄り添ってくださるのです。