2022年6月5日 ペンテコステ礼拝「聖霊の力」使徒言行録2章1-11節

使徒言行録2章1-11節のテキストは、イエスが復活されて40日目、弟子たちに約束された通り、聖霊が下りました。その時に起こった出来事が記されています。1節から4節に「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っている家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」とあります。「激しい風が吹いてくる」とか、「炎のような舌が分かれ分かれ現れ」、「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」という言葉は、神が現れるときに使われている用語です。その用語を用いていることは、ペンテコステにどのように起こったかということを伝えるのではなく、聖霊が降って神的出来事を起こった事実を伝えているのだと思います。
1章8節に「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」とあります。証人は殉教と同じ原語を持っています。聖霊は信仰のために命を賭ける力を生み出すというのです。力は「デュナミス」と言い、「ダイナマイト」の語源で、聖霊は私たち人間を遥かに越える力、わたしたちを生まれ変わらせる力、無から有を生み出す力であるというのです。その聖霊の力を受けるのがペンテコステです。
4節「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」とあります。聖霊は弟子たち一人一人の中に降って、その人の心を動かし、その口を開かせたというのです。弟子たちは皆ガリラヤ出身なのに、集まっている外国人にも通じるように、いろいろ違った国の言葉で話し出したというのです。  
7節に「人々は驚き怪しんで言った」とあります。神の奇蹟の出来事を表しています。つまり、ペンテコステは神の言葉の奇蹟の出来事であるというのです。創世記11章の「バベルの塔の物語」は、人間がアスファルトという新しい物質と技術とを手に入れ、「天にまで届く塔のある町を建て、有名になろうとした」とあります。バベルの人々は力を誇り高ぶり、神を押しのけ、人間の名誉を高めようとしました。神はバベルの人々を見て、裁きを下しました。その結果、バベルの人々の言葉は混乱し、互いの言葉が聞き分けられないようになり、世界に散らされたというのです。「散らされる」とは「分裂、亀裂する」ことを意味します。「互いの言葉を聞き分けられぬように」は、「聞かないように」です。人間同士、互いの言葉を聞かなくなり、その結果、バラバラになってしまったというのです。その始まりはアダムとエバの原罪にあります。この世界は「神の言葉」によって創造されました。ですから世界は神の言葉に「聞き従う」ことによってしか、秩序と愛を保つことは出来ません。人間も「神の言葉に聴き従う」ことによって、創造された者に相応しいものとして存在し、交わりの中で生きることが出来るというのです。しかし、アダムとエバ以来の人間は神の言葉を聞かなくなりました。そのために、神と人間の関係は破れ、同時に人間同士の関係も破れました。そして、バベルの塔で遂に行き着くところまで来てしまいました。人間関係はバラバラに破壊され、互いに分かり合えず許すことができなくなりました。国と国が争い、人間も互いに争い、その関係も断絶したというのです。
バベルの塔以後の時代、バベル的な危機の中にありました。神の言葉を聞けない、同時に互いに人の言葉を聞くことができない、断絶と孤立の危機に直面させられてきました。現代は洪水のように言葉は氾濫しています。インターネットという新しい技術と手段が使われ、瞬時に、全世界の人と話すことができるようになりました。それなのに、人間は皆孤立しています。孤独と空虚に苛まれています。共に生きることが難しくなり、対立と争いが起こり、家庭の崩壊、子どもの虐待、孤独死という現象も現れています。バベルの塔の物語で起こった出来事が起きているのです。
神は憐れみ、神の聖霊・プニューマを一人一人の心の中に降し、エゴイズムの罪を砕かれ、新しい人間に造り変えられ、人間本来の姿、共に生きる力を与えてくださいました。神は神の言葉に聞き従う道を与え、新しい人間の交わり、教会と言う共同体が生み出しました。教会・エクレシアは聖霊のもたらす賜物です。
4章13節に「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。」とあります。聖霊は人を変革し、御言葉を聞く力を与え、新しい交わりを創造する力です。弟子たちは、大祭司のアンナスが弟子たちを見て、この「無学でふつうの者が」と驚いているように、大きく変えられました。
6節に「だれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話しているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか』」とあります。ガリラヤ出身の弟子たちがいろいろな国の言葉で語り聞いたというのです。聖霊の力によって、言葉を聞くものに造り変えられたのです。お互いに言葉が通じ合い、互いに心が分かり合い、互いに愛し合うということが起こりました。神の奇蹟的な出来事です。共に許し合い、共に生きる生活が生み出されたのです。その事実がペンテコステの出来事です。教会に、わたしたち一人一人の生活の中に、「聖霊よ、来たり給え。そして、全てのものを新しくしてください」という祈りをささげたいと思います。