2022年5月22日「世に打ち勝つ信仰」民数記13章30-33節ヨハネ福音書6章5-11節

テキストは民数記13章30-33節です。モーセとイスラエルの民はエジプトを脱出し、カナンに入る手前まで来ました。そこで、カナンを偵察するためにカレブやヨシュアら、12名の斥候を選び、送り出しました。彼らは40日間カナンを偵察した結果を報告しました。カレブとヨシュアは「進んで行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます」と積極的な報告をしています。それに対して、他の10人は「いや、あの民に向かって進んで行くのは不可能です。彼らは我々よりも強い。我々が偵察してきた土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地である。我々が見た民は皆ネフィリム・巨人でした。我々は自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいないと悲観的な報告をました。両者は同じものを見たはずなのに、この違いは何か?「いなご」はイザヤ書41章14節の「虫けらのようなヤコブよ」の「虫けら」を意味し、「小さいバッタ、おけら」のことです。この「虫けら」は「つまらない、役立たない人間」という意味で、自己卑下、自ら存在の否定、劣等意識、被害者意識、臆する心を意味します。この自己卑下、劣等感、被害者意識がイスラエルを苦しめ、カナン侵入に40年間もかかった原因の一つであります。民衆は10人の悲観的な、荒廃的な報告を聞き「大声を上げて叫び、夜を泣き明かした」といいます。
民衆は「なぜ、我々をエジプトから導き出したのか。エジプトにいた時は奴隷だったが、それでもエジプトの方がずっと良かった」と、モーセを責め、「エジプトの地で死んでいたほうが良かった、できれば、この荒れ野で死んだ方がましだ」と呟き、「さあ、我々はモーセとは違った指導者を立てて、エジプトに帰ろう」と騒ぎ立てまいた。彼らの自己卑下、劣等感、自己否定は、イスラエルを崩壊させようとしています。イスラエルの民は、この自己卑下と自己否定から解放され癒しを受けなければなりませんでした。
なぜ、イスラエルの民は自分たちを虫けらだと自己卑下、自己否定するようになったのでしょうか? 10人の偵察隊長がアナク人を見て、ネフィリム(超人的存在者)と見てしまったのです(創世記6章4節)。彼らはアナク人と自分たちを比べ、比較して自分を評価しようとしたのです。そこに彼らの倒錯の問題があったと思います。
カレブとヨシュアは自分を他の何ものとも比較しません。比較しないで、神の前で自分を理解しています。他の10人の斥候は、自分の目から自分を見ますから、自分の存在が、小さな存在、取り柄のない、つまらない人間に見えてしまったのです。イザヤ書43章4節に「わたしの目にはあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする」とあります。聖書は、自分を見るもう一つの目を示します。つまり、「神の目」です。自分の目からでなく、神の目から自分を理解します。そうすればアナク人も同じ神に造られた被造物であり、恐れるに足らないという思いに至るというのです。
ダグ・ハマーショルドに「多くの人は、他の人よりも優れているか、いないかが常に重大な関心事になっている。しかし、あなたがたの間ではそうあってはならない。あなたがたにとって、自分になりうる者になっているか、それとも、なりうる者になっていないかが、より本質的な問題である」という言葉があります。モーセの言葉で言い換えれば、アロンより優れているか、ヨシュアより勝っているかではなく、モーセという名前 (ヘブル語のマーシャー・引き出す)のように、イスラエルの民をエジプトから引き出す者になっているか。神の使命に生きている者になっているかです。モーセにとってそれで本質的な問題であり、それ以上に付け加えることはないというのです。
ヨハネ福音書6章5-11節にイエスが五つのパンと2匹の干し魚で、5千人の群衆を給食する物語があります。その日、群衆は朝から夕方まで、ずっとイエスの傍で、教えを聞いていました。それを見たイエスは、弟子のフィリポに「この人たちを食べさせるには、どこからパンを買えば良いだろうか」と尋ねました。フィリポは「この人たちにパンをやるには、二百デナリのパンでも足りないでしょう」と応えました。もう一人の弟子のアンデレは、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんな大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と言いました。ヨハネ福音書はこの弟子たちの悲観的な態度は民数記のイスラエルの群衆と共通していると見ています。弟子たちは、自分たちの前に立ちはだかっている現実に圧倒されて、「何の役にも立たない」と呟くのです。主イエスは、弟子たちの呟き、自己卑下、無力感、絶望を癒そうと、五つのパンと二匹の魚で給食されました。
11節に「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』と言われた」とあります。「満腹した」は、単なるお腹の満腹ではなく、キリストの満ちあふれる恵みに満たされたという意味です。弟子たちは崩壊させられるような現実に直面し、恐れと不安で、立ち竦んでしまいました。しかし、それにまして、キリストの恵みに満たされたのです。ヨハネの手紙Ⅰ5章4節に「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」とあります。弟子たちは純粋に素直に神を信じ、信頼しました。神の名のためにという信仰を与えられました。それが不条理な現実に立ち向かわせました。わたしたちも弟子たちの信仰に倣いたいと思います。どのような現実で出会っても、神を信じ、神に依り頼んで、臆することなく、雄々しく立ち向かって行ける者とされましょう。神の寄り添って頂き、神と共に歩んで行きましょう。