2022年5月15日 「砂漠よ、花を咲かせよ」イザヤ書35章1-10節

イザヤ書35章の背景はバビロン補囚です。南ユダ国は、紀元前597年と587年に、バビロニアのネブカドネツァルとの戦いに敗れて、遠く首都バビロンに捕虜として連行されました。その50年後、538年ペルシャのキュロスの補囚釈放令によって帰還しました。長い捕囚ですから、皆高齢になっていました。亡くなった人も少なくありません。エレミヤの勧めたように、当地で、バビロン人と結婚し、息子、娘をもうけ、家を建て、畑を得て、バビロンの生活に順応していった人々もいました。キュロスの釈放令が出て、エルサレムに帰還出来るのですが、家族や生活面で複雑な問題があったと思います。エルサレムはバビロンから直線で900キロあり、更に、シリア砂漠と荒れ野が横たわっていました。日陰にする大木も水を飲む場所もありません。帰還する人々とって大きな障碍でした。元気な人でも帰還には相当な覚悟がいるのに、ましてや年老いた者や身体の不自由な者には不可能なことでした。5、6節に記されている、耳や目や足や口の不自由な人とは、年老いて帰還は無理だと思われる人々のことを言っていると思います。老いと病気のため、シリア砂漠を越えることは無理でした。バビロンに残らざるを得ない。その不安と絶望に打ちひしがれていた人々が沢山いました。今日の御言葉は、その人々に向かって語られた言葉です。
1節に「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ、砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。」とあります。「荒れ野」は植物や動物が生きることが出来ない程厳しい環境を意味します。「野ばらが一面に咲き」は「野ばら」だけでなく、早春に咲く水仙やサフランのことです。早春にバビロンとエルサレムの間に横たわっていた砂漠と荒れ野が不思議な景色に変えられ、万物が新しい命を得て、再生することを意味します。
2節に「花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャロンの輝きに飾られる」とあります。カルメルは地中海に沿った山です。当時は豊かな緑一面の森林でした。シャロンはカルメル山の麓にある地中海沿いの豊かな平野です。早春になると、一面にサフランと水仙が咲きます。人間の力では不可能です。しかし、神には出来ます。シリア砂漠はレバノンのように豊かな花や緑に飾られた美しい土地に変えられ、帰還を妨げる障壁を取り除いてくれるというのです。
8節に「そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ、主御自身がその民に先立って歩まれる。そこに、獅子はおらず、獣が上って来て襲いかかることもない」とあります。あらゆる障壁が取り除かれ、身体の不自由が癒され、神の新しい創造の業が起こるというのです。だから、「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。雄々しくあれ、恐れるな。」と、呼びかけ、慰め、勇気づけ、希望を与えています。
この「雄々しくあれ、恐れるな」という神の呼びかけは、イスラエルの歴史の中の決定的な時に掛けられています。創世記15章1節に「恐れるな、雄々しくあれ、わたしはあなたの盾になる」とあります。アブラハムが、ソドムとゴモラで滅ぼされ、行き先を見失っている時に、与えられています。出エジプト記14章13節に「一体何のためにエジプトから導き出したのですか。エジプトに墓がないから、荒れ野で死なせるためですか。もうこれ以上は我々にかかわらないでください。われわれはエジプト人の奴隷になります。荒れ野で死ぬよりエジプト人の奴隷になったほうがましです」とあります。エジプトを脱出したイエラエルは、エジプトの王に追跡されました。彼らの前方は紅海が行く手を阻み、背後からはエジプト軍が迫ってきた。イスラエルの人々は恐れました。神は、「恐れてはならない。雄々しくあれ。落ち着いて、今日、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい」と命じました。ヨシュア記1章9節に、「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」とあります。)。激しい流れのヨルダン川を目の前にして、「雄々しくあれ、恐れるな」と躊躇しているイスラエルの民とヨシュアを力づけています。
4節に「心おののく人々に言え。『雄々しくあれ恐れるな。見よ、あなたたちの神を。」とあります。厳しい現実のためにうなだれる民の目を、神に向けられるようにと命じます。主を見上げて、そこに希望を見出せというのです。
「敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる」とあります。この「救われる」は「苦労が報われる」という意味です。彼らの人生は、戦争、敗戦、捕虜、苦しい帰還、年老いて砂漠を歩く苦難の旅、更に、エルサレムに帰還すると、エルサレムは崩壊したまま、エルサレム神殿の再建も頓挫したままの現実を目撃し、失望落胆しました。苦しむために生まれてきたようなものです。自分たちの苦労はいったい何だったか。わたしたちの苦難は徒労ではないか、自分の人生を否定し、疑いと諦め、絶望しました。
コリントの信徒への手紙Ⅰ15章58節に「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないかことを、あなたがたは知っているはずです」、フィリピの信徒への手紙2章15節に「よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」とあります。
イザヤは厳しい現実の中で絶望するイスラエルの民に、あなた方の労苦は報われると預言するのでした。
10節に「喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」。」とあります。「嘆きと悲しみは逃げ去る」とは「過去のものになった。過去にこだわらなくてもよい」という意味です。「悲しみもため息も皆過去のものとなります。あるものと言えば、喜びと楽しみだけだ」というのです。それは「その時」です。「その時、見えない人の目は開き、その時、歩けなかった人が鹿のように踊り上がる」。「その時」はパウロの言う「キリストの日」です。その終末論的なキリストの救いを目指して歩んでいきたいと思います。