2022年5月8日イザヤ書52章13節-53章12節 「イエスの受けた傷によって」

ヨブ記は神とサタンとの議論で始まります。神がヨブほどの正しい信仰を持っている者はいませんと言うと、サタンはヨブが全ての面で恵まれているから、神を信じているのだ、不幸なことが起これば必ず信仰を捨てると主張します。それに対して神はヨブに限ってそんなことはない。ヨブが信仰を捨てるかどうか。ヨブの命を奪う以外は、どんな苦しみを与えてもよい、試してみよと言います。サタンはヨブを試します。ヨブは全財産を奪われ、10人の子供が事故で亡くします。しかし、ヨブは「わたしは裸で生まれ、裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取りたもう。主の御名はほむべきかな」と神を讃えました。
サタンはヨブをさらに苦しめ、難病を患わせます。ヨブの妻は「神を呪って死になさい」と言います。さすがのヨブも疑い、呟きます。「なぜ、神は罪もないわたしを苦しめるのか、どうしてこんな苦難を受けなければならないのか」と神を恨みました。そこに律法学者や祭司の三人の友人が、ヨブを慰めに来ます。一人は「神のなさることは間違いないのだから、お前は黙っていなさい」と言い。一人は「お前は気付かないかも知れないが、どこかでお前自身が罪を犯している」と悔い改めを勧めました。しかし、苦痛のどん底に沈んでいるヨブを納得させ、慰めることはできませんでした。彼らの教条主義的なドグマは逆にヨブを傷つけ、苦しめるのでした。
ヨブは自分の苦しみを理解してくれる者は誰もいない。家族も、身内も、友たちも理解してくれないと思うようになりました。しかし、信仰は無駄だと言って、神に背を向けることはしませんでした。本当に自分を理解し、真の慰めを与えてくれる者がいる。この苦しみの真の理解者、慰め主がいるはずだと究極的な救いを求め続けます。
ヨブの問題に応えているのが、今日のテキストであると思います。イスラエルの
民はバビロンに捕らえ移されてから五十年間経ちました。その間彼らは痛みを負い、病と苦しみを知ってくれる者いるかと問い続けてきました。その時、西方に新興国ペルシャが起こり、キュロス王は強力な軍隊を引き連れ、「捕囚の民を解放し、自由にする」と言ってバビロンに侵攻して来て、バビロンを打ち倒しました。しかし、キュロスは真の解放者・慰め主ではありませんでした。キュロスは苦しむ者の痛みを理解することはありませんでした。政治的な王はやはり自分の利益だけを求め、イスラエルに服従を求め、重税を課せ、主なる神礼拝を許しませんでした。イスラエルの人々は、キュロスを油注がれた者と期待しました。しかし、現実は違っていました。期待を裏切られたイスラエルの人々は無力感、絶望感に打ちのめされました。
その時、イザヤは神の言葉を与えられ、新しい救い主が与えられると語りました。新しい救い主は、それに相応しい威厳も輝かしい風格も、好ましい容姿もありません。多くの人が考えてきた救い主とはまつたく違っていました。逆に、人々から軽蔑され見捨てられました。彼は人の痛みを自分の痛みと理解し、病む人のことを良く知る優しい救い主でありました。
しかし、イスラエルの人々はキュロス王のように強力な軍事力をもって、バビロンを打ち滅ぼし、救いをもたらす。そのような力の救い主を待ち望みました。しかし、キュロスがそうであったように権力を有した王は、真の救いをもたらせません。権力を持つ王は貧しく小さな存在は切り捨て、貧しい者や病人、子供、年老いた者を大切にしません。それが、世俗的な政治の世界です。政治的な王の役割と責任は重大ですが、真の慰め主にはなり得ないというのです。イザヤは真の救い主は人の病を知り、痛みが分り、苦しみを負い、小さな存在を真に支え、生かす方であると語りました。 5節に「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とあります。真の救い主はわたしたちの罪を負ってくださるのです。イスラエルの人々が生きているのは、救い主が刺し抜かれ、打ち砕かれて、痛み、苦しみを負ってくださってからです。パウロも、わたしたちが今日こうして在るのは、わたしたちに代わって苦難を負ってくださっているからだと告白しています。
神谷美恵子の「生き甲斐の育て方」という著書があます。神谷さんは精神科の医師、心理学者として、先駆的な働きをされた方です。神谷さんをあのように生かした要因の一つは、ハンセン病を患う人々との出逢いでした。神谷さんは、「なぜわたしたちではなく、あなただ? あなたはわたしに代わってくださったのだ」と言い続けていました。神谷さんは長島愛生園というハンセン病の療養所の精神科医として働かれました。生きる要因は、自分に代わって、自分が負わなければならない苦難を、あの人が負ってくれたという信仰にありました。神谷さんの言葉は真理だと思います。わたしの生きる力は自分の中ではなく、自分の代わりに苦しみを負ってくださっているという信仰の中にあると言います。イエスの受けた傷によって、癒されているとう信仰があります。「イエスはわたしの代わりに苦難を負ってくださった。」その事実に未来があり、希望があると信じ歩んで行きたいと思います。