吉野弘に「I was born」という詩があります。主人公は、英語を習い始めて間もない中学生の少年です。或る日、彼は父親と、(母親は彼が生まれて間もなく亡くなりました)。夕もやの中、寺の境内を歩いています。すると向こう側から、身重の女の人が歩いてきました。そして、彼の横を行き過ぎました。その時彼の思いは飛躍します。彼は、生まれるということが、英語で習ったように、受動態で言い表している意味を理解するのでした。彼は興奮して父親に話しかけました。「―やっぱり、I was born なんだね」と。 父親は怪訝そうに彼の顔をのぞきこみました。彼は繰り返して、「I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられたんだ。自分の意志ではないんだね」と言いました。父親は驚いた様子で、息子の言葉を聞いていました。父親は、しばらくそのまま無言でいました。その後、母親が彼を出産すると、すぐに亡くなったことを静かに語り始めるのでした。そのような詩です。この詩は詩人吉野弘さんの回心物語ではないかと思います。人間は生まれるのではなく、生まれさせられた。生きているのではなく、生かされている。その信仰的な事実を発見したのであると思います。
パウロも同じ様な事実を述べています。彼はコリントの町に伝道に入り、教会が生まれました。間もなくコリント教会の中に深刻な問題が生じます。パウロの排斥運動が起こりました。コリント教会はパウロをコリント教会の牧師として認めることは出来ないと言うのです。それに対してパウロは懸命に弁明をします。自分はかつてキリストに敵対し、教会を迫害した。その後、復活の主イエスに出会い、回心し、使徒とされた。その意味では使徒のうちでもっとも小さい者である。しかし、働きにおいては劣るところはないと伝道の成果や業績を比較して、自分の立場を弁明しました。しかし、突然、他の使徒と比較して弁明しようとすることに、空しさを感じ、「今日(こんにち)わたしがあるのは、神の恵みである」と言っています。「他の使徒のだれよりも多く働いたとても、その働きは、わたし自身の働きではなく、わたしと共にあった神の恵みである」と言います。つまり、究極的には、自分が生きているのではなく、神によって生かされているというのです。つまり、信仰の受身です。それが聖書の信仰の本質であるというのです。
イザヤ書46章1節に「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ、お前たちの担いでいたものは重荷となって、疲れた動物に負わされる。彼らも供にかがみ込み、倒れ伏す。」とあります。この「ネボ」とか「ベル」とかは、バビロンの宗教と神々のことです。バビロン人はその神々を担いでパレードをし、国威を高めようとしてきました。しかし、神々を担いできた人間が疲れ、倒れ伏してしまいました。バビロンは一時、富み栄え、隆盛したが、やがて、国力も勢力も衰えてきたというのです。つまり、バビロンの歴史を見てみると、本質的には、人間がベルやネボなどの神々を担って生きることはできない。その事実をイザヤは明らかにしているのです。人間が神を担うのではなく、神が人間を担う。その事実を率直に認め、心に留めなくてはならないというのです。ここに聖書の信仰の中心があると思います。
3節に「わたしに聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」とあります。聖書信仰の本質が言い表されています。人が神を担ぐのではありません。逆です。人間は、神に担われ、背負われている存在であるというのです。
イスラエルは捕囚民としてバビロンに拉致され連行され、まつたく異なる文化、習慣、価値観の中に投げ込まれました。彼らが信じ、頼りにしてきた、主なる神・ヤーウエを礼拝することも出来ません。代わりに、バビロンの神々、或いは、王ネブカドネツァルを礼拝させられました。その不気味な圧力が彼らを押し潰すように迫ってきました。彼らは大きく動揺しました。「神は我々を捨てて、どこかに行ってしまった」と嘆き悲しみました。また、「神はいない」と、彼らは深い虚無感、絶望感、倦怠感に打ちひしがれていました。その時、ヤーウエの神は「あなたがたを担う、背負う」と言われたのです。3,4節に「担う」と言う言葉が二回、「背負う」と言う言葉が二回、「負う」が一回出てきます。4節では、現在の聖書には訳されていませんが、原文では「神」を示す「わたし」と言う言葉が6回も出てきます。本文に忠実に訳しましと、「わたしは、あなたたちが老いても同じわたし。あなたたちが白髪になっても、わたしは背負う。わたしがことを始めた以上、わたしが負う。わたしは背負い、わたしは救い出す。」となります。神はわたしたちが生まれた時から年老いるまで、わたしたちを担い、背負ってくださる方です。初めから終わりまで、変わらない方です。わたしたちがかつて若くて魅力と力があり、才能もある、生き生きとしていた。その時代のわたしたちに眼をかけ、気遣い、愛してくれるというのではありません。年老いて白髪になっても、もう自分の足では立てない、人の支えを受けなければ立てない、そのようなわたしたちを担い、背負ってくださるというのです。
神はわたしたちの人生のすべて、生と死に対して、全責任を負ってくださる。だから、わたしたちは、最後の絶対的な責任を負わなくても良いのだと思います。勿論無責任で、不真面目で良いというのではありません。最後の一歩手前の真剣さで生きれば良いというのです。究極的には神が、責任を負ってくださるのだから、わたしたちとしてはそれを信じて、委ねていけば良いのです。主イエスは「重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい、休ませてあげよう」と言っています。わたしたちが負うべき重荷を主イエスがわたし達に代わって負ってくださるのです。わたしたちは軽やかに、健やかに生きていけばよいと言われます。